1章-16.実家からの迎え、動き出す歯車 .
運命の、次の日の放課後。
学園前には、迎えの馬車が、ぽつんと佇んでいた。
「それじゃ、またね……。二人とも、一週間本当にありがとう」
私は距離感を保ちながら、見送りに来てくれたグレンとアルに、小さく一礼して背を向けた。
これ以上、彼らの顔を見てはいけない。
未練があふれて、全部台無しになってしまうから。
冷たい馬車のステップに足をかけ、乗り込もうとした、その時だった。
「ルナリア……っ!」
足音と共に、背後から私の名前を呼ぶ声が響いた。
振り返るよりも早く、駆け寄ってきたグレンの大きな手が、私の手を強く握りしめた。
「グレン……っ、もう行かないと。御者が待っているわ」
慌てて手を引こうとするけれど、グレンは頑なにその手を離そうとはしなかった。
見上げる彼の碧玉の瞳は、痛々しいほどに激しく揺れている。
「ルナリア……。……君が何も言わなくても、私は、必ず……っ」
「グレン」
グレンの言葉を遮るように、一歩後ろに控えていたアルがそっと彼の肩に手を置いた。
彼はグレンをなだめるように、けれど私に対しては、どこか含みを持たせた不敵な笑みを浮かべてみせる。
「そんなに強く握ったら、ルナリア嬢が困っちゃうよ。ほら、手を離して。……大丈夫だよ。また、すぐに会えるんだからさ」
「アル……。ああ、そう、だな……。すまない」
アルに促され、グレンはゆっくりと私の手から力を抜いていった。
(また、すぐに会える……。うん、そうね。教室に戻れば、また遠くからあなたたちの姿を見られるもの)
アルの言葉を、単なる優しい気休めだと受け取っていた。
「……さようなら……」
それが、私の口からこぼれ落ちた、精一杯の別れの言葉だった。
私は逃げるように、馬車の薄暗い車内へと滑り込んだ。
バタン、と重苦しい音を立てて木製の扉が閉まり、外の夕暮れ光が遮断される。
胸を切り裂くような寂しさに身を震わせながら、私は暗闇のなかで、一筋だけ、涙を落とした。
◇
学園から送り出された馬車が、ペンバートン子爵邸の古びた門に到着する。
世界はすっかり深い夜の帳に包まれていた。
見慣れたはずの薄暗い屋敷が、まるで怪物のように見える。
馬車を降り、一歩ずつ玄関の扉へと近づくにつれて、私の足取りは重くなっていった。
(一週間も無断で外泊したんだもの……。どれだけ完璧な根回しをしてくれたとしても、お父様が怒り狂っているのは間違いないわ)
最悪の事態を想像し、胃の奥がキリキリと痛む。
恐怖に震える指先で、私は覚悟を決めて子爵家の重い木製の扉を押し開けた。
「ただいま戻りまし——」
「おお、ルナリア! 待ち兼ねたぞ、遅かったではないか!」
「え……っ?」
玄関ホールに足を踏み入れた途端、飛び込んできたのは私の予想を覆す光景だった。
そこに立っていた父は、激怒するどころか、満面の笑みで私を出迎えてくれたのだ。
あの冷酷な父が、こんなにも上機嫌な様子を見せるなんて、いつ以来のことだろう。
あまりの異常事態に、私は硬直してしまった。
「あの……お父様。事前の相談もなく外泊を続けてしまい、本当に申し訳ございま……」
「フン、そんな些細なことはもうどうでもいい! それよりお前、すぐに自室に戻って明日の身支度と準備をしろ!」
「え? 明日、ですか……? 一体、何があるのですか」
戸惑う私に、父は手にした一通の高級な羊皮紙の書状を、自慢げにひらひらと見せつけてきた。
「レミントン伯爵家から、直々に令息の誕生日パーティーの招待状が届いたのだ! なんでも、主役である令息と同い年くらいの子供たちを集めて、華やかに祝いたいとのことで……。どういう風の吹き回しか、お前のような役立たずにもお呼びがかかったのだ!」
「え、レミントン伯爵家から、私に……っ!?」
私は驚きのあまり息を呑んだ。
レミントン伯爵家といえば、広大な領地経営で成功しているだけでなく、事業を次々と成功させている、今最も勢いのある大物貴族だ。
私達ペンバートン子爵家など、普段なら雲の上の存在である。
「いいか、ルナリア。天下のレミントン伯爵家のパーティーだ。王都中の有力な貴族たちがこぞって集まるに違いない。そこで、我が家に利益をもたらしてくれるような、地位の高い婚約者を何が何でも見つけてくるんだ!」
父は欲望に塗れた目で私を見下ろすと、その醜い唇の端を歪めて冷酷に言い放った。
「面汚しのお前が役に立てることなど、その見た目で高貴な男をたぶらかすことくらいだ。愛嬌を振りまいて、死に物狂いで縁談をもってこい!」
「……っ。……はい、お父様」
私を人間ではなく、家を潤すためだけの都合の良い道具としてしか見ていない。
グレンやアルがこの一週間。
私という存在そのものを認め、私の重ねてきた努力をあんなにも尊んでくれた記憶。
それが、父の罵倒によって無惨に汚されていく。
(……でも、よかった。今日は、お父様に殴られずにすみそう……)
今夜の暴力を免れただけで、私は心のどこかでホッと安堵してしまっていたのだ。
そんな自分の、痛みに麻痺してしまった歪んだ思考が、ひどく惨めで、また涙がこぼれそうになる。
実家の冷たい現実に引き戻され、私はただ、明日の華やかな地獄へ向けて、心を閉ざすことしかできなかった。




