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1章-15.差し伸べられた手と、グレンの熱意

 案内されたフォーサイス公爵邸の執務室。

 そこは数々の蔵書や書類に囲まれた、静かで厳かな空間だった。


「——この度は、本当に大変な苦労があったな、ルナリア子爵令嬢」


 対面に腰掛けたフィン公爵。

 その彫刻のように硬い面持ちこそ崩さなかったものの、私に向けてくれた声音には、驚くほど温かだった。


「い、いいえ! 滅相もございません。むしろ私の方こそ、公爵家の皆様には多大なるご迷惑をおかけしてしまいました。……本当に、感謝の言葉もございません」


 緊張のあまり声が裏返りそうになるのを必死に抑え、私は深く頭を下げた。


「気にするな。そう言ってくれると、我が家としても善処した甲斐があるというものだ。これからのフォーサイス公爵邸での生活で、もし困ったことや不自由なことがあれば、何でも遠慮なく私や使用人達に言ってくれ」


「は、はい……っ」


 予想に反して、私を責めるような気配は一切ない。

 それどころか、あまりにも至れり尽くせりな歓迎ぶりに、私の心臓は緊張と恐縮で余計に荒ぶる。


「さて、さっそく本題に入ろう。君には、今ここで伝えておかねばならない重要な事柄が『三つ』ある」


 フィン公爵が背筋を正し、その鋭い瞳で私を見据えた。


「まずは一つ目。——君の父親、ペンバートン子爵のことだ」


「——っ」


 『父親』という単語が出た瞬間、私の身体が条件反射のようにビクリと強張る。

 昨夜の怒り狂う父の姿を思い出し、無意識のうちにドレスの膝を握りしめた。


「安心しなさい。ペンバートン子爵は、近日中に、近親者への暴行の罪で投獄されることが決定となっている」


「そう、ですか……」


「さらにさまざまな事業での不正も見つかった。……いずれ爵位も剥奪されるだろう。今後、あの男が君の前に現れることも、君の人生に関わることも、二度とないから安心しなさい」


 あれほど私を恐怖させ、支配していたあの男が、あっさりと瓦解してしまった。

 私は安堵しながら、怒涛のような展開に驚きを隠せなかった。


「我が家の影を使って少し調べさせたのだが……あの男は過去に、君の母親を力尽くで脅迫し、無理やり婚姻を結んだ経緯があるようだ」


「お母様、を……?」


「ああ。手に入れたいと思ったものは、他者を踏みにじってでも強引に我が物にする。あの男の人生は、終始そういう欲の塊だったと言っても差し支えないだろう」


 公爵の冷徹な言葉が、私の胸の奥を軋ませる。


 私の記憶の奥底に眠っていた、母の細く、今にも消え入りそうだった震える声がふいに蘇った。


『ルナリア。……あの人を、あなただけは愛してあげて……』


 無理やり結婚させられ、愛することすらできない男の側で、どれほどの苦渋と絶望を味わっていたのだろう。


 手に入らない母の愛。

 拒絶され続けた男。


(だから、母と生き写しの顔をした私が『大嫌い』と言った瞬間に、怒り狂ったのね……)


 あの男にとって私の完全な拒絶は、周囲の目や社会的地位などすべてが吹き飛ぶほどの地雷。


 真実を知らされた私の心は、言葉にならない複雑な感情で、激しく掻き乱されていく。


「——だが、過去のしがらみも、両親がどのような事情を抱えていようとも、今の君には何の関係もないことだ。ルナリア子爵令嬢、君は君の思うように、これからの人生を自由に生きるといい」


 私の暗い葛藤をすべて見透かしたかのように、フィン公爵は重ねて優しい言葉をくれる。

 呪いのようにな過去が、公爵の静かな声音によって、ひとつずつ丁寧に上書きされていくような気がした。


「そして二つ目だ。今後の君の処遇について話をしよう」


 公爵はデスクの上から一通の厳封された書類を取り出すと、私の前のローテーブルへと静かに差し出した。


「これは、ペンバートン子爵家が営んでいた事業の目録だ。当面の間は、我がフォーサイス公爵家が全責任を持って引き継ぎ、運用する。そして君が高等部を卒業した際、もしその意志があるならば、すべての事業と資産を君が継承するといい」


「え……」


「……それまでの間、つまり高等部を卒業するまでは、我が公爵家が責任を持って君の身柄を保護しよう。学園での生活はもちろん、君が新しくやりたいこと、学びたいことが見つかれば、何不自由なく支援する用意がある」


「あ、あの、お待ちください……。私にとっては嬉しい話なのですが、フォーサイス公爵家に何も利点がないのでは……?」


 私の言葉に、フィン公爵はフッとその厳しい唇の端を和らげた。

 その表情は、どこかグレンに似ている。


「ルナリア子爵令嬢。子どもは、大人に甘えなさい」


「——っ」


「今の君が考えるべきは、損得勘定ではない。まずはその心身の傷をじっくりと癒やすことだ。そして、もしできることなら……これから先の人生で、どのような道に進みたいのか、ゆっくりと見つけるといい」


 あまりにも大きすぎる温情に、私は完全に言葉を失ってしまった。


(なんて、温かい場所なのかしら……)


 この公爵家は、きっとこの歪んだ世界のなかで、奇跡のような存在だった。

 じわりと胸の奥が熱くなるのを感じながら、私は深く息を吸い込んだ。


「……もし、今この瞬間に、将来の希望ややりたいことがあるならば、遠慮せずに言うといい。フォーサイスの名にかけて、私が叶えてやろう」


「将来の、希望……」


 最初に思い浮かんだのは、このままこの温かな家で、グレンやアルの側で暮らす。

 そんなことができたら、それはどんなに幸せなことだろう。


 けれど——私の脳裏に、やはりあの最悪の『全滅エンド』の光景が蘇る。

 まずは、この近すぎる距離をどうにかしなければ。


「……それでしたら、公爵様。グレンからの婚約のお申し出、今ここで正式にお断りさせてください」


 公爵が、意外そうにこちらの表情を伺う。


「……すでにご存知かと思いますが、私の魔力属性は『闇』です。それも、強力で、危険な可能性をもっています。私は、大切な人を傷つけてしまうかもしれない。それが、どうしても怖いのです」


 決意を秘めた私の瞳を、フィン公爵は複雑な眼差しで見つめ返していた。


「……なるほど。それは、次に話そうと思っていた『三つ目』の事柄でもあるのだがな……」


 そもそも、彼は私なんかと結ばれてはいけない存在なのだ。

 彼には、やがて学園で出会うはずの運命の相手——この世界の『主人公』のであるヒロインがいるはずなのだから。


(私がいなくなっても、きっと大丈夫。グレンは絶対に幸せになれる……)


 そう自分に言い聞かせた瞬間、なぜだろう。

 チクリと、針を刺されたような、言葉にならない痛みが胸に走った。


「元々、あの婚約の申し入れは、愚息の完全な独断と暴走だ。君には当然、それを断る権利がある。だが……」


 公爵は、深くため息をつくと、静かに首を横に振った。


「私が聞きたかったのは、そのような自己犠牲や、遠慮ではない。……まだ、高等部卒業までは十分な時間がある。将来どう生きたいかも、グレンからの申し出についても、今は保留にしておこう。もう少し心が落ち着いてから、君自身の本当の幸せについて、ゆっくりと考えなさい」


「……あの、公爵様は」


 私は顔を上げ、恐る恐る口を開いた。


「グレンと私が……身分違いの婚約をすること自体には、反対なされないのですか? 私は闇の魔力を持つ、罪人の娘です。公爵家の名前に傷がつくのでは……」


 私の問いかけに、フィン公爵はふっと肩の力を抜き、心底困り果てたような苦笑いを浮かべた。


「……あの馬鹿息子は、一度決めたら岩より硬い、とんでもない頑固者だからな。もし私が反対でもしようものなら、グレンはフォーサイスの名を捨ててでも君と一緒になる道を選ぶだろう」


「え……っ」


 先ほど部屋で聞いたグレンのセリフが脳裏をよぎり、私の背筋に冷や汗が伝う。


「それに、グレンは公爵家の三男だ。長男ならいざ知らず、三男の婚姻を身分の釣り合いだけで縛り付ける積極的な理由も、我が家には特にない。……問題は、肝心の君の気持ちが、グレンの熱量に追いついていないことだが」


「そ、それは……! グレンが私に婚約を申し込んだのは……彼なりの優しさだと思うのです……」


 必死に否定する私を、公爵はどこか憐れむような、けれど温かな瞳を向ける。


「……昨夜の作戦。あの中で最も大変で、困難を極めたのがどの瞬間だったか、君には分かるかな?」


 唐突に話題を変えた公爵に、私は小首を傾げた。


「あの男が、君に暴力を振るい始めたあの瞬間だ。……あの男を捕獲するためには、我々はどうしても『手を出されるその瞬間』まで、バルコニーの陰でじっと待機していなければならなかった」


 公爵の声が、静かに低く響く。


「だが、グレンの理性は吹き飛んだ。飛び出そうとするあいつの口を塞ぎ、私とアルの二人掛かりで抑え込まなければならなかったのだよ」


「……っ。そんな、ことが……」


 私が知らない、バルコニーの陰で起きていた出来事。

 彼が私のために、そんなにも激昂していたなんて知らなかった。


「君達二人の詳しい関係性については、私は何も知らない。だが……あの時のグレンの様子を見れば、君に対して『ただのクラスメイト』や『優しさ』以上の、深く重い感情を抱いていることなど、誰の目にも明白だった」


 公爵の言葉が、私の胸の曇りを晴らすように貫いていく。


「……グレンは本気だ。それをどう受け止めるかは、君次第だがね」


 私は、グレンの手の熱を思い出しながら、名付けようのない感情にどうしようもなく戸惑うのだった。

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