5章-124.(グレン視点)黒の異形、エリオスの抱く約束
目の前に立ちはだかったのは、つぎはぎの人形を思わせる、ひどく歪んだ形状の異形だった。
周囲の夜の闇さえも貪り尽くすかのような、底の知れない暗黒をその身にまとっている。
「……アルの言う通り、今までの異形とは力の強さが全く違う……!」
ただそこに佇んでいるだけで、女神の槍の神聖な輝きさえも侵食しそうな圧迫感が辺りに満ちていた。
「——!!」
不意に、異形が引き裂かれるような悲鳴に似た叫び声をあげる。
それは思わず耳を塞ぎたくなるほどに、聴く者の心に絶望を植え付ける咆哮だった。
同時に、周囲の影が生き物のように蠢き、無数の凶刃となって私たちへと襲いかかってくる。
「っく……!」
私は背後にいるエリオスを庇いながら、女神の槍を振るって迫る影を打ち払う。
だが、その一撃ひとつひとつが、こちらの神聖の力を打ち負かさんとするほどの、強烈な圧力を伴っていた。
「エリオス、下がっていてくれ。私が——」
彼を背に隠すようにして、さらに一歩前へと出た、その瞬間だった。
「大丈夫だよ、パパ。ここからは、僕がやる」
突如として、銀色の光を放つ檻が私の周囲へと出現した。
まるで私の身を閉じ込めるかのように、隙間のない密な格子が美しくも頑強に煌めく。
「エリオス!? 一体何をするんだ!」
困惑しながら檻越しにエリオスへと視線を向ける。
小さな背中を向けた彼は、すでにあの不気味な異形の真ん前へと毅然と立ちはだかっていた。
「今すぐに私をここから出すんだ! どうしてこんなことをする!」
「これはね、ママからのお願いなんだ。だからパパであっても、これ以上手を出すのはダメだよ。その檻の中なら安全だから、全部終わるまでそこにいてね」
「ルナリアが……? エリオス、一体どういうことだ、説明をしてくれ!」
その時、異形から放たれた昏い影の触手が、無防備なエリオスへと躊躇なく襲い掛かろうとした。
私は彼を救い出そうと、焦燥に駆られながら銀の檻を破壊しようと槍を突き立てる。
しかし、闇をも貫くはずの女神の槍の刃すら、その格子に無情にも弾き返されてしまった。
「なんて強度だ……っ。エリオス!」
危機に瀕しているはずのエリオスは少しも慌てることなく、小さな両手を掲げて、いつもの不可思議な詠唱を厳かに紡ぎ出す。
途端に、迫っていた影は月夜の光に溶けるようにして一瞬で霧散した。
魔力を内側から激しくかき乱された異形が、苦悶に満ちた叫び声を夜空へとあげる。
「うん、ちゃんと約束を守るよ……ママ」
エリオスはゆっくりと黒の異形を見上げた。
その横顔に滲むのは、年齢に似合わぬ深い哀愁だった。
「エリオス……! 私も助力する。ここから——」
「それじゃあ……パパは、ママを殺せるの?」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の中で全ての時が止まった。
頭が、言葉の意味を理解することを拒んだ。
「な、何を言っているんだ……」
絞り出した声が、自分のものとは思えないほど遠くに聞こえる。
「殺せないでしょう? パパは、ママのことが大好きだからね」
エリオスの口元には笑みが浮かんでいた。
しかしその瞳の奥には、どこか全てを悟ったような暗い影が揺れていた。
「それにね、ママを殺すのは、僕の役目なんだ。誰にも譲ってあげないよ」
エリオスは銀色の光の粒子を周囲に静かに散らしながら、再びあの異形へと向き直る。
その背中はいつもと変わらないのに、知らない誰かのように映った。
「……まさか」
最初にあの化け物が現れた時、手先の少女が異形へと変質した。
そして、今のエリオスの言葉。
脳裏の中でバラバラだった情報が、音を立てて繋がっていく。
辿り着いてしまった答えに、全身の血が一気に冷えた。
「あれは……ルナリアなのか……?」
私のその絞り出すような声に呼応するかのように、黒い異形がこちらへとゆっくり顔を向ける。
そのぽっかりと開いた空洞の目からは、絶え間なく、まるであふれ出る涙のように闇の魔力がこぼれ落ちていた。




