1章-11.探してしまう二人の姿、駆けつけてくれたグレン
翌日、父の馬車に揺られて到着したレミントン伯爵家の誕生日パーティー会場。
そこは、私の短い人生のなかで、間違いなく最も美しくい場所だった。
「おい、ルナリア。突っ立っているんじゃない。さっさと私の後ろに続け」
「……は、はい、お父様」
周囲の圧倒的な華やかさに、私はすっかり呑まれてしまった。
着慣れない窮屈なドレスの裾を気にしながら、父の半歩後ろを人形のように付いて歩く。
(……グレン。それに、アルも……どこかに、いるのかな)
会場を行き交う華やかな人々を見つめながら、無意識のうちに二人の姿を探してしまっていた。
一目でもいい。
ほんの少しでも彼らの姿を視界に捉えることができたら、勇気で満たされるような気がしたのだ。
しかし、隅々までどれだけ目を凝らしてみても、グレンも、アルも、どこにも見当たらなかった。
(……そうよね。昨日の放課後、二人とも何も言っていなかったもの……)
来ていない。
その事実が、胸の奥に冷たいぽっかりとした穴を開ける。
「ルナリア! 何をぼーっとしている! 早く私に付いてこい、挨拶回りをするぞ!」
急に立ち止まりかけた私の二の腕を、父が周囲に聞こえない怒鳴り声と共に、強い力でつかんできた。
「あ、う……っ、ごめんなさい、お父様……っ」
引きずられるようにして、私は父と共にパーティー会場へと連れ回された。
すれ違う貴族たちの、値踏みするような冷ややかな視線。
父の、卑屈で下卑たお世辞の数々。
そのすべてが私の心を削っていく。
(早く、早く終わってほしい……。グレン、アル……っ)
胃を引っかかれるような拒否感に視界が歪む。
心の中でだけ彼らの名前を呼びながら、私はただ、父の欲望のままに光の海の奥底へと引きずり込まれていった。
年若い貴族の嫡男、年配の権力者——。
あらゆる欲望と値踏みの視線に晒され続け、私の精神と体力は、限界を迎えていた。
「おお、ペンバートン子爵。この度は我が息子のため、ご足労いただき感謝いたします」
目の前の人混みが割れる。
ついに、この豪華なパーティーの主催者であるレミントン伯爵が姿を現した。
「これは、これはレミントン伯爵! この度はこのような栄えある、良き日にお招きいただき、我がペンバートン家にとってこれ以上の誉れはございません!」
父の目が、まるで極上の獲物を見つけた獣のように、卑屈に、そしてギラギラと輝いた。
私はその姿に嫌悪感を抱きながらも、子爵令嬢としての義務を果たすため、伯爵の前へと一歩踏み出した。
その、刹那だった。
——ガシャーンッ!!!
喧騒を引き裂くような、激しい破砕音がホールに響き渡った。
「え……っ!?」
私のすぐ側、台座の上に飾られていたはずの高級な花瓶が、無惨に床へと落ちて粉々に砕け散っていた。
水と大輪の薔薇が、私のドレスの裾を濡らしていく。
私は花瓶に触れてすらいない。
それどころか、まだ数歩は距離があったはず。
(どうして……? 触っていないのに、なんで……っ)
「おい、ルナリア! お前何てことを……っ!」
一瞬にして静まり返った会場の中で、周囲の冷ややかな視線が一斉に私へと釘付けになる。
父の顔が、驚愕から瞬時に怒りの形相へと変色していくのが分かった。
「——おやおや。どうやら、子爵令嬢は少々お疲れのご様子だ」
父の罵声より早く、レミントン伯爵が遮るようにして、朗々とした声を響かせた。
「慣れないパーティーで疲れたのでしょう。幸い、我が家には静かな休憩用の客室が用意してあります。そちらでお休みください。……お体に触るといけませんので、すぐに送迎の馬車も手配させましょう」
「は、伯爵……っ。この愚娘がこのような不始末を——」
「気になさらずに、子爵。何より令嬢のお体が最優先だ。さあ、案内しなさい」
レミントン伯爵は流れるような動作で、側に控えていた使用人達に目配せをした。
有無を言わせぬ完璧な誘導。
これほど丁重に、かつ明確に退出を促されては、いくら強欲な父であっても、伯爵の言葉に逆らえるはずがなかった。
「……くっ。寛大な御心、感謝いたします、伯爵」
割れた花瓶を片付ける使用人を背に、私と父は流れるような手際でパーティー会場から連れ出されていく。
案内された休憩室は、ゆったりとした贅沢なソファにローテーブル。
さらには冷たい水や軽食まで用意された、至れり尽くせりの空間だった。
「この……見下げ果てた役立たずが! 役に立つどころか、レミントン伯爵の前で、私の足を引っ張るとはどういうことだ!」
「も、申し訳ありません……っ」
花瓶を割ったのは私ではない。
かすりもしていない。
けれど、激昂して顔を真っ赤に染めている今の父にそれを言ったところで、火に油を注ぐだけだ。
私はただ嵐が過ぎ去るのを待つように頭を垂れるしかなかった。
「せっかくの、我がペンバートン家がのし上がるための絶好の機会を無駄にしおって……! ……ええい、こうなったら」
父は爪を噛みながら部屋を往復していたが、ふと足を止めると、こちらを振り返ってにたりと醜く唇を釣り上げた。
「爵位を金で買った、悪趣味な『少女趣味』で有名な大商人がいる。もうじき初等部も卒業する、ちょうど良い機会だ。そいつの元へ送ってやる!」
「……っ!?」
あまりにも下卑た、そしておぞましい提案に衝撃が走る。
貴族の娘が政略結婚の道具に過ぎないことくらい分かっていた。
けれど、目の前の男が言っているのは『結婚』などではない。
ただの『人身売買』だ。
(もう私には、どんな道も残されていない……)
目の前が真っ暗になり、すべてを受け入れて諦めそうになった、その時。
私の凍てつきかけた意識の底に、あの温かな光をまとった少年の声が蘇った。
『ルナリア――』
あの日、医務室でグレンが真っ直ぐに私に向けてくれた言葉。
『君の隣には、いつだって私がいる』
(——いや、違う。違わ。私は、もうあの日までの私じゃない!)
私は、グレンとアルのために。
そして何より、私を人として扱い、私を認めてくれた二人の優しさに報いるためにも。
不幸せになるわけにはいかなかった。
今、ここに二人の姿はない。
けれど、二人から分けてもらった温かさが、私の心の中に息づいている。
私は胸の上で、まだ震える両手をぎゅっと強く握りしめた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、私を見下ろしている父の目を、真っ直ぐに睨み返した。
「……嫌です」
「……何と言った?」
私の小さな呟きが信じられなかったのか、父が不愉快そうに眉をひそめる。
私はもう、目を逸らさなかった。
「私は、お父様の決めた人と結婚なんて絶対にしません! 私のことを人間とも思わず、道具のように扱う人の言うことなんか、もう二度と聞きません!」
「なっ……お前……っ!?」
父が驚愕に目を見開く。
無能の娘が自分を睨み返してくるなんて、夢にも思わなかったのだろう。
「お父様のことなんか……大嫌いです!」
言い切った瞬間、不思議と恐怖は消え去っていた。
私の胸の奥で、闇の魔力が呼応するように力強く脈打った。
「——その目で……母親と同じ顔で! 私に向かって、二度と同じような言葉を吐き出すなあああッ!!」
父の顔が、怒りと狂気で歪んだ。
私の反抗が、何か致命的な逆鱗に触れたらしい。
父は甲高い怒声を上げると、私の髪をつかみ上げた。
「う、あ……!」
「お前は……私の、ペンバートン家の道具だ! 私の言うことだけを黙って聞いていればいいのだ!」
私は冷たい大理石の床へと叩きつけられた。
ドカッ、と鈍い音が室内に響く。
衝撃で、肺のなかにある空気が強制的に吐き出された。
「ごほっ、う……っ、うぐ……」
私は床に這いつくばったまま、激しく咳き込むことしかできなかった。
「二度と、私に口答えをするなと言っているんだ……ッ!」
荒い息を吐きながら、父はなおも怒りを収めきれないようだった。
そして、ローテーブルの上にあったガラスの水差しを乱暴に手に取る。
(あ、だめ——っ)
それを私の頭上へと、狂気に駆られた力で思いきり振り下ろした。
私は恐怖に身体を硬直させ、痛みに備えてぎゅっと目をつむった。
——ガシャンッ!!!
飛び散ったガラスの破片が床を転がる音。
冷たい水が、辺りに激しく滴り落ちる音。
それがはっきりと鼓膜を打った。
それなのに。
私の身体に想像していた痛みは、いつまで経ってもやってこなかった。
代わりにやってきたのは、私の小さな身体を包み込む、ひどく熱い体温。
「——ルナリア、遅れてすまない……っ!」
耳元で、聞き覚えるのある、けれど必死な声が響いた。
「え……?」
恐る恐る目を開けると、そこには、心を溶かすような赤髪。
私の頭を自分の胸元に固く抱きしめたグレンの姿があった。
衣服が濡れるのも、ガラスの破片が飛び散るのもいとわず、彼は私に覆い被さるようにして、その身を盾にして守ってくれたのだ。
彼が、今は見たこともないほど痛々しく、心配そうな表情で私を見つめ返していた。




