1章-10.グレンが抱く渇望 .
「それじゃ、今日のところはここまで。俺は馬車の準備をさせるように、一足先に御者へ伝えてくるよ。グレンたちは、悪いけど訓練場の鍵を管理室に返しておいてね」
私達に背を向け、手を振りながらアルは流れるような動作で訓練場の扉の向こうへと消えていった。
静まり返った広大な空間に、二人きり。
夕闇が本格的に降り始めた訓練場には、先ほどまでの緊張感。
そしてつい数分前、お互いを強く抱きしめ合ってしまったという事実のせいで、ひどくよそよそしく、甘がゆい空気が流れていた。
しばらく無言の時間が続いたが、それを破ったのは、やはり生真面目な彼の方だった。
「……ルナリア、立てるか?」
一歩近づき、少し遠慮がちに差し出された、グレンの右手。
「ありがとう……」
その手をそっと取ろうとした私の動きが、ピタリと止まった。
夕暮れに照らされた彼の手のひら。
そこには、およそ大貴族の御曹司には似つかわしくない、無数の微細な傷。
何度もマメが潰れては硬くなったような、さまざまな痕が刻まれていたのだ。
(……これって……)
武器を幾度となく握り締め、手の皮を擦り切らせながら修練を重ねてきた証。
痛みに耐えてきたに違いない、努力の痕跡。
「グレンも……たくさん、訓練をしているのね」
ぽつりと溢れた私の言葉。
それに、グレンは意外そうに自分の手のひらを見つめる。
それから極まり悪そうに指を曲げて拳を作った。
「ああ……これか……」
この世界において、彼は誰もが羨む圧倒的な神童だ。
けれど、苦労せずにその座にいるわけではないことを、彼の手が物語っていた。
それほどの努力を重ねているにもかかわらず、彼は私の前ではそんな素振りを一切見せない。
ただただ、私を救うための温かな優しさだけを分け与えてくれる。
その気高さが、まぶしくて、愛おしくて、やっぱり少しだけ切ない。
「大したことではないんだ。毎日欠かさず続けている、ただの基礎鍛錬の痕跡だよ」
グレンは私に心配をかけまいとするように、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「私のこんな訓練なんて、君が日々耐えてきた苦労や、今日見せたあの強い決意に比べれば……気にするほどのことじゃないさ」
「そんなこと……っ」
違う、と私は首を振った。
彼の重ねてきた努力を、そんな言葉で片付けてほしくなかった。
しかし、グレンは自嘲気味に息を漏らす。
自身の傷だらけの手のひらを見つめたまま、ぽつりと本音をこぼした。
「私の努力など、求められる水準にはまだまだ足りないくらいだよ。……現に、同い年であるはずのアルは私よりも遥かに強く、精神的にもずっと大人びている」
「それは、アルが特殊なんだと思うわ……」
「そうかもしれない。だが彼は時折、父上から直々に実務の仕事を任せられていることもあるくらいだ。……正直、悔しい」
私は一瞬言葉に詰まり、それから必死に言葉を探した。
「グレンとアルは違う人間よ。他の人と比べる必要なんてない」
アルは、どこか底の知れないを感じさせる。
そんな規格外の存在と自分を比べて、グレンが心を痛める必要なんてどこにもないはずだ。
「それは、そうなんだけれども……ね」
私の必死な弁護に、グレンは困ったように眉を下げて微笑んだ。
グレンはゆっくりと顔を上げ、アルが去っていった扉の先を見つめた。
彼の横顔に年相応の、けれどひどく苦い悔しさが滲み出る。
「——守られているだけなのは、嫌なんだ」
その声は、私のものとは比べものにならない決意に満ちていた。
「私はフォーサイス公爵家の人間だ。いつか、この国を背負う人々を守る盾にならなければいけない。それなのに……周りの力に守られてばかりいる。そんな自分に、私はずっと腹が立っていたんだ」
グレンはぎゅっと、傷だらけの手を握りしめた。
「私はアル以上に強くなりたい。彼に守られる主君ではなく、お互いに背中を預け合えるくらいの存在になりたいんだ」
ドクン、と胸の奥が跳ねる。
その真っ直ぐで切実な思いに、私は息を呑んだ。
(ああ、やっぱり、この人は……)
ゲームのキャラクターという、画面の向こうの存在ではない。
熱と血が通った一人の人間。
私が絶対に穢してはいけない、尊い存在なのだ。
「グレンなら、きっとなれるわ」
少しだけためらいながらも、私は彼の手をそっと両手で包み込んでいた。
「あなたなら、アルと並んで立てる日がくる。私も、『闇』に絶対に負けないって約束する。あなたのためにも……私、がんばるわ」
紡いだ言葉は、悪役令嬢としての運命に対する、私なりの宣戦布告だった。
彼らの未来を守るためなら、私は自分の内にある禁忌の力すらねじ伏せてみせる。
「ルナリア……」
私の突然の宣言に、グレンは驚いたようにその緑の瞳を大きく揺らした。
グレンの張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けるのが分かった。
「君は……強いな、ルナリア。……本当にあの日、君の異変に気づけてよかった」
慈しむような、震える声音。
グレンは私に包み込まれたままの自分の右手を、今度は愛おしそうにきゅっと握り返してきた。
私の肌に彼の熱が直接伝わってきて、トクンと胸が跳ね上がる。
「グレン……?」
彼の言葉の響きに、どこか特別な意味が含まれているような気がして、私は思わず彼の顔を見上げた。
グレンの瞳の奥にある光は、深くも温かな色彩を帯びていた。
「あ、いや……なんでもないんだ。すまない、少し変なことを言った」
私の視線に気づいたグレンは、ハッと我に返ったように頬を微かに染め、慌てて視線を斜め下へと逸らした。
彼は照れ隠しをするように、もう一度私の目を見つめ直すと、力強くうなずいた。
「……ルナリア。これから、ともに頑張っていこう。君の隣には、いつだって私がいる」
「うん……。ありがとう、グレン」
訓練場には、もう先ほどの重苦しい闇の気配は残っていなかった。
窓から差し込む夕日が、私達の影を床の上に長く、ひとつに重ね合わせるようにして伸ばしている。
ご愛読ありがとうございます。ブックマーク・評価など頂けると更新の励みになります!




