1章-10.ひとときの平穏の終わり
「よし。俺の魔力による誘導がなくても、安定して魔力を身体の中に流せてるね。とりあえず、ここまで回路を馴染ませることができれば、そうそう魔力暴走を起こすことはないよ」
「本当……!?」
アルの太鼓判に、私は信じられない思いで自分の両手を見つめた。
「まあ、まだその魔力を外に放出して、闇魔法の『術式』として行使するのは流石に早いだろうけどね。でも、まずは危険な力を身体に慣らすという第一段階は大成功」
「よかった……!」
「……これは全部、ルナリア嬢の才能と、死に物狂いの頑張りのおかげさ。よくやったね」
アルは頑張ったと労うように、私の肩をぽんと優しく叩いて微笑んでくれた。
(本当に、本当によかった……っ)
張り詰めていた緊張の糸が一気に解け、私は心の底から深く胸を撫で下ろした。
シナリオという見えない怪物に、ほんの少しだけ抗えた気がして、じんわりと目頭が熱くなる。
けれど、そんな私のささやかな安心感を打ち砕くように、アルは静かなトーンで言葉を続けた。
「ただ……明日だっけ。君が、あの家に帰らなくちゃいけないのは」
「——っ」
アルの口から告げられた一言に、私の心臓が一気に冷たく締め付けられた。
この一週間は、思い返せば本当に怒濤のような毎日だった。
グレンとアルと過ごした時間は、これまでの私の人生の中で最も穏やかで、温かな日常だった。
その温もりに満ちた箱庭の日々が、とうとう明日、終わりを迎えてしまう。
明日からは、またあの冷たいペンバートン子爵邸に戻らなければならない。
「ええ……。でも、大丈夫よ。アルのおかげで力の制御のコツは掴めたし、ちゃんと、上手くやってみせるわ」
努めて明るい声を意識して、私は無理やり笑顔を作ってみせた。
(……これでいい。これでいいんだわ)
実家に戻る恐怖はもちろんある。
けれど、私の胸の奥には常に、もう一つの怖さが広がっていた。
いくら暴走の危険が減ったとはいえ、これ以上グレンやアルの近くに居続けるのは、彼らにとって危険なリスクになりかねない。
一歩引いた場所で見守るのが最善手なはずだ。
(でも……もしも、『全滅エンド』なんてものが、最初から存在しない世界だったなら?)
私が世界を滅ぼす悪役令嬢などではなく、ただのどこにでもいる女の子だったなら。
これからも、この穏やかな日々を彼らの隣で過ごしていくことができたのだろうか。
(それが叶うなら、きっと……私にとって、人生最大の幸せなんだろうな)
叶うはずのない贅沢な夢。
胸の奥に灯ったあまりにも儚い願いを、私はそっと心の闇の底へ閉じ込めた。
私がうつむいていると、目の前の床に別の影が重なった。
グレンが、静かに私の傍らへと歩み寄ってくる。
「……ルナリア」
頭上から降ってきたのは、私のすべてを包み込むような、ひどく優しい声だった。
「——家に、帰りたくないのか?」
「え……っ!? い、いえ、そんなことは……っ」
あまりにも核心を突いた問いに、動揺を隠しきれず声が上ずってしまう。
私の必死の嘘を、グレンは否定も肯定もしなかった。
「私に嘘をつかないでほしい」
「……っ」
「君がそれを望むのであれば、私は何だってする。ルナリアの幸せを、私がこの手で形作ってみせる。だから……君の本当の思いを、私に聞かせてほしい」
「グレン……」
息が止まりそうだった。
あまりにも真っ直ぐで、すべてを投げ出してすがりつきたくなってしまうような、温かな眼差し。
(本当は、あの家に帰りたくない……)
これからも、あなた達の隣で笑っていたい。
喉の奥まで出かかった本音を、私は必死に飲み込んだ。
(だめ。ここで私がそんなことを言ったら、彼らを私の『闇』の近くに縛り付けるのと同じこと)
私は一週間で最高の、優しい嘘の笑顔を浮かべた。
「大丈夫よ、グレン。……私はもう、あなたやアルのおかげで、十分に幸せな気持ちになれたから。もう、私のことは気にしなくていいの」
心からの感謝を込めて、私は彼を見つめ返した。
「本当に、今までありがとう。この一週間を……一生忘れない」
グレンのおかげで、これ以上ないほど温かな毎日を過ごせた。
これ以上、彼らに望むものなんて何もない。
「そう、か……」
私の言葉を聞いたグレンは、ぽつりとそう呟いた。
これで、彼は引き下がってくれるはず。
そう思った私に反して、グレンはただ、痛みをこらえるように顔を曇らせる。
その緑の瞳は、何か重大な覚悟を秘めているかのような、重苦しい色を帯びていた。
運命の、次の日の放課後。
学園前には、迎えの馬車が、ぽつんと佇んでいた。
「それじゃ、またね……。二人とも、一週間本当にありがとう」
私は距離感を保ちながら、見送りに来てくれたグレンとアルに、小さく一礼して背を向けた。
冷たい馬車のステップに足をかけ、乗り込もうとした、その時だった。
「ルナリア……っ!」
足音と共に、背後から私の名前を呼ぶ声が響いた。
振り返るよりも早く、駆け寄ってきたグレンの大きな手が、私の手を強く握りしめた。
「グレン……っ、もう行かないと。御者が待っているわ」
慌てて手を引こうとするけれど、グレンは頑なにその手を離そうとはしなかった。
「ルナリア……。……君が何も言わなくても、私は、必ず……っ」
「グレン」
グレンの言葉を遮るように、一歩後ろに控えていたアルがそっと彼の肩に手を置いた。
「そんなに強く握ったら、ルナリア嬢が困っちゃうよ。ほら、手を離して。……大丈夫だよ。また、すぐに会えるんだからさ」
「アル……。ああ、そう、だな……。すまない」
アルに促され、グレンはゆっくりと私の手から力を抜いていった。
(また、すぐに会える……。うん、そうね。教室に戻れば、また遠くからあなたたちの姿を見られるもの)
アルの言葉を、単なる優しい気休めだと受け取っていた。
「……さようなら……」
それが、私の口からこぼれ落ちた、精一杯の別れの言葉だった。
私は逃げるように、馬車の薄暗い車内へと滑り込んだ。
胸を切り裂くような寂しさに身を震わせながら、私は暗闇のなかで、一筋だけ、涙を落とした。
◇
学園から送り出された馬車が、ペンバートン子爵邸の古びた門に到着する。
世界はすっかり深い夜の帳に包まれていた。
(一週間も無断で外泊したんだもの……。どれだけ完璧な根回しをしてくれたとしても、お父様が怒り狂っているのは間違いないわ)
最悪の事態を想像し、胃の奥がキリキリと痛む。
恐怖に震える指先で、私は覚悟を決めて子爵家の重い木製の扉を押し開けた。
「ただいま戻りまし——」
「おお、ルナリア! 待ち兼ねたぞ、遅かったではないか!」
「え……っ?」
玄関ホールに足を踏み入れた途端、飛び込んできたのは私の予想を覆す光景だった。
そこに立っていた父は、激怒するどころか、満面の笑みで私を出迎えてくれたのだ。
あの冷酷な父が、こんなにも上機嫌な様子を見せるなんて、いつ以来のことだろう。
「あの……お父様。事前の相談もなく外泊を続けてしまい、本当に申し訳ございま……」
「フン、そんな些細なことはもうどうでもいい! それよりお前、すぐに自室に戻って明日の身支度と準備をしろ!」
「え? 明日、ですか……? 一体、何があるのですか」
戸惑う私に、父は手にした一通の高級な羊皮紙の書状を、自慢げにひらひらと見せつけてきた。
「レミントン伯爵家から、直々に令息の誕生日パーティーの招待状が届いたのだ! なんでも、主役である令息と同い年くらいの子供たちを集めて、華やかに祝いたいとのことで……。どういう風の吹き回しか、お前のような役立たずにもお呼びがかかったのだ!」
「え、レミントン伯爵家から、私に……っ!?」
私は驚きのあまり息を呑んだ。
レミントン伯爵家といえば、広大な領地経営で成功しているだけでなく、事業を次々と成功させている、今最も勢いのある大物貴族だ。
「いいか、ルナリア。天下のレミントン伯爵家のパーティーだ。王都中の有力な貴族たちがこぞって集まるに違いない。そこで、我が家に利益をもたらしてくれるような、地位の高い婚約者を何が何でも見つけてくるんだ!」
父は欲望に塗れた目で私を見下ろすと、その醜い唇の端を歪めて冷酷に言い放った。
「面汚しのお前が役に立てることなど、その見た目で高貴な男をたぶらかすことくらいだ。愛嬌を振りまいて、死に物狂いで縁談をもってこい!」
「……っ。……はい、お父様」
私を人間ではなく、家を潤すためだけの都合の良い道具としてしか見ていない。
(……でも、よかった。今日は、お父様に殴られずにすみそう……)
今夜の暴力を免れただけで、私は心のどこかでホッと安堵してしまっていたのだ。
そんな自分の、痛みに麻痺してしまった歪んだ思考が、ひどく惨めで、また涙がこぼれそうになる。
実家の冷たい現実に引き戻され、私はただ、明日の華やかな地獄へ向けて、心を閉ざすことしかできなかった。
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