第十話 アルド様はなぜそこにいるのですか
その日は非番だった。
非番という概念が嘱託調査員にあるのかどうか分からなかったが、アルドから「明日は来なくていい」と言われた。理由は「調査局の内部整理があるから」だそうだ。
せっかくなので、久しぶりに王都の街を歩くことにした。
朝のうちに刺繍の続きを片付け、昼過ぎに外に出た。
行きつけの本屋で魔法理論の本を一冊買い、隣の雑貨屋で糸を補充した。それから、少し足を伸ばして市場の方へ向かった。
市場は賑わっていた。野菜、魚、花、焼き菓子。色々な売り物が並んでいる。人が多い。香りが混ざり合っている。
こういう場所は、前世でも好きだった。
リンゴ飴の屋台の前で少し迷っていると、背後から声がかかった。
「珍しいところにいるな」
振り返ると、アルドだった。
「……アルド調査官殿」
「ああ」
「今日は調査局の内部整理では」
「終わった」
「随分早いですね」
「予想より早く終わった」
彼は普通の口調で言った。私はリンゴ飴の屋台を見てから、アルドを見て、また屋台を見た。
「……では、ここにいらっしゃるのは」
「通りがかりだ」
「市場を通りがかり、ですか」
「そういうこともある」
「調査局からここまで、ずいぶん遠いかと思いますが」
「近道がある」
(ない)
心の中でそう思ったが、言わなかった。
「リンゴ飴でも買おうかと思っていたところです」
「そうか」
「よかったら、ご一緒にいかがですか」
一瞬の沈黙。
「……通りがかりなので」
「そうですか。残念です」
「……一本くらい、なら」
結果として、二人でリンゴ飴を食べながら市場を歩くことになった。
アルドが市場に来ることは珍しいらしく、屋台の人たちが少し驚いた顔をしていた。
彼は周囲にあまり慣れていないようで、人の流れを避けながら歩いていた。私が自然と先に立って道を作ると、彼がその後ろを歩く形になった。
(この人、こういう場所が苦手なんだ)
前世でも、仕事は完璧なのに、日常の小さなことが得意でない人はいた。
「アルド調査官殿は、甘いものは召し上がりますか」
「……あまり食べない」
「では今日は珍しいですね」
「そうかもしれない」
しばらく歩いてから、アルドが少し声を落として言った。
「君が昨日、ラインから話を聞いたと報告があった」
市場の賑わいが、少し遠くなった気がした。
「はい。跟踪しているかもしれない者がいる、と」
「今は確認中だ。だが、警戒するに越したことはない」
「わかりました」
「一人で出歩くのは、しばらく控えてもらいたい」
「今日のような日も、ですか」
「……今日は、俺がいる」
少し間があった。
「通りがかりですよね」
「そうだ」
「随分都合のいい通りがかりですね」
「そういうこともある」
私はリンゴ飴の棒をくるりと回しながら、小さく笑った。アルドは前を向いたまま、何も言わなかった。
夕方近く、市場を出たところでアルドが立ち止まった。
「一つ、聞いていいか」
「はい」
「怖くないか」
「今日ですか」
「今回の件全体を通じて」
私はしばらく考えた。
「正直に言うと、少し怖いです」
「……そうか」
「でも、止まる理由にはならない、とも思っています」
アルドが私を見た。
何か言おうとして、止めた。その顔に、一瞬だけ何かが過った。
何だったのか、私には読み取れなかった。
「帰り道、馬車を呼んでくれ」
「はい。ありがとうございました、今日は」
「俺は通りがかっただけだ」
「そうですね」
「……気をつけて帰れ」
「はい」
馬車に乗り込んでから、アルドの最後の顔を思い出した。
何か言いかけて、止めた表情。
前世の経験上。あれは「言えないことがある」という顔だった。
(何だろう)
その夜は、少し考えたが、答えは出なかった。




