「ハウエル」ー1
目の前で空を眺めている少女は、ずいぶんと大人の雰囲気を纏うようになっていた。
だけど、それはみせかけだ。
彼女は大人になるどころか、退行の一途を辿っている、ハウエルにはそう見えて仕方がなかった。
だから、ハウエルは彼女の日傘を持ち、彼女が陽の光で焼き尽くされないように、陰を作りながら彼女の習慣的な庭の散歩に付き従っていた。
この庭だけが、“彼女”の世界なのだろう。
そんな風に思いながら。
彼がそんな彼女に出会ったのは、五年前。
御家騒動の最中、実権を握った現王セドリック・アーク・ジバンデルタによってだった。
「これが逃げぬよう監視し閉じ込めておけ」
当時は迷走し続ける王太子問題の中、前王が崩御したということもあったため、セドリック自身王子という立場でしかなかったが、そんな彼から直々に麻袋に詰められた少女をハウエルは受け取った。もちろん、まさか人間が中に入っているとは、露にも思っていなかった。
温かみがあることから、犬か豚か。
いや、何かとても貴重な生き物でも飼おうとなされているのか。
狩りにでも興じていらっしゃったのだろうか。
ただ、それだけしか思わなかった。
「それは将来の王家の役に立つ、大切なものだ」
セドリックは、わずかに首を傾げたハウエルにそう告げた後、塔の鍵を手渡した。
しかし、指定された石塔の上にある部屋の鍵を開けると、お姫さまが使うようなそんな調度品が並べられていたのだ。
その時でさえ、王族の戯れは庶民には理解できないな、くらいの感覚だった。
だけど、丁重に扱わなければ自分の首が飛ぶのだろうと思い、そっとその麻袋を石の床の上に置いたのだ。
麻袋の紐を解いて驚いたのは当たり前だった。
みすぼらしい衣服を纏う紅色の髪と、現王セドリックが嫌う王家の証の緑眼を持つ少女が出てきたのだから。
その少女がロゼッタだった。
少女は名前を名乗った後、矢継ぎ早にハウエルにつまらないことを質問し、ハウエルのことを兵隊さんと呼び始めた。
特に兵役にも付いていないハウエルがずっと『兵隊さん』と呼ばれるのは、あの時の彼女の質問に答えなかった報いでもある。
その時のハウエルは、その厚顔無恥さに呆れたのか、そんな彼女に酷いことを言ってしまった。
――お前、女で良かったな。それだけで王家の役に立つらしい
まさか、あの時は、彼女がこんな風に扱われるだなんて思ってもいなかったのだ。
厚顔無恥は自分だったことに、そうだ、今さら気づいたのだ。
ロゼッタが塔の上に幽閉されたその直後だった。セドリック王子が強力な後ろ盾――ロドウェル卿を味方につけ、対抗馬だった彼の叔父を制圧したのは。
そして、ハウエルは彼女が何者だったのか、やっと知ることになったのだ。
彼女はセドリックの兄が罪だった。
どこかの令嬢を孕ませて駆け落ちしたという、その御家騒動の元凶。
それは、あまり仲睦まじいと聞いたことがなかった王太子の婚約者からの逃亡劇であり、同時に王家の力の回復のために進められた政略への裏切りだった。
その結果、恥をかかされた大貴族と名高い婚約者令嬢が、彼の弟セドリックではなく、従兄弟と婚約し、前王の足元が大きく揺らぎ始めたのだ。
そんなことがあったため、セドリックの非情とされるその性格からも、ロゼッタのあの扱いにも納得できたのだ。
もちろん、近衛兵というそんな名のある立場でもなかったハウエルは、詳細を知らされていたわけでもなかったのだけれど。
しかし、ロゼッタがセドリックのために使われる何かであるということくらいは、気づいていたのだ。そして、おそらくこれがハウエルの罪悪感の元凶だ。
ハウエルの家は、その叔父ではなく、セドリック側に属する貴族の一族ではあった。だが、ハウエルの立場などただの小姓のひとりにすぎず、セドリックの命令に従う小間使いのような小僧だっただけ。
しかし、口が堅くあまりしゃべることを好まないという点で、傍に置かれることが多く、そのまま従士という立場へ向かわせたことが、ハウエルをロゼッタに巻き込む結果につなげていたのかもしれない。
だから余計に、彼女が壊れていく様子に胸を痛めているのかもしれない。
そうなのだ。ハウエルは誰にも目を付けられず、動きやすかった。
だから、セドリック王子と叔父方の対抗勢力として名が挙がったロドウェルの密会の場にも、ハウエルは深く関わっていた。
その宿を手配したのもハウエルで、セドリックを秘かに馬車に乗せ、彼らを引き合わせたのもハウエルだ。
あまりいい噂を聞かないロドウェルとの引き合わせに協力したのは、立身出世を夢見ていたのかもしれないし、ただ反抗できない立場だったということもあったのだろう。
今ではそれすら曖昧だった。
ただ、その宿の薄い扉の向こうから聞こえてきたたった一言に、身の毛がよだった。
「しっかり調教させているよ。私が王位についた暁の、……五年後の利子として」
――調教……
ロゼッタの扱いを知っていなければ、ぜったいに結びつかなかっただろう言葉。
なぜか震えた。
そう、これは……。
――怒り
普段感情をあまり揺らすことがないハウエルが感じた、確かな怒りだった。
そして、言葉通りセドリックは叔父を制圧し、自分の息が掛かっていないその親戚縁者すべてを処刑し、王座に就いた。
ロゼッタがロドウェルに嫁いだ日――半年前のことだった。
ハウエルはそのロゼッタの逃亡を阻止するために、今も存在している。
ロドウェルお気に入りのロゼッタが逃亡でもしてしまえば、まだ完全に盤石でないセドリックの地盤が崩れてしまうからだ。
そう、本来なら侍女くらいが適当な王族でもない女性相手に、腕力のある男のハウエルが付く理由だ。
ハウエルの目の前にいる儚げな少女は、おそらくハウエルが腕を捩じるだけで、その腕を折ってしまうかもしれない。
それほど彼女はか弱く見えた。
そんな彼女が、何かに怯えるようにして、わずかに後ずさった。
「どうなされましたか?」
彼女は何も答えず、視線を落としていた。その視線の先にある、彼女の踵の低い靴のつま先の先。
干からび始めた雛と卵らしき殻があった。虫もたかり始めている。
『死』というものは、穢れでもある。
彼女でさえ、それを直感的に嫌がるのかもしれない。
「すぐに処分しましょう」
その言葉にゆっくりと振り返った彼女は、ぼんやりとハウエルを眺めた。
「……兵隊さん、これは……なに?」
いや、ロゼッタは死を穢れだとは思ってはいないのかもしれない。ただの事象として受け止め、不思議として感じたのかもしれない。
――知恵はつけてはいけない。
そうは言われてきていた。
だが、ハウエルは正直に答えた。
「それは……カッコウの雛に落とされたアオジの雛でしょう。最近カッコウがよく鳴いていましたから」
その答えに彼女が小さく復唱した。
「カッコウ……アオジ……」
ロゼッタの声は以前に比べるとどんどん小さくなってきている。聴こうとしなければ、おそらく誰にも届かない、そんな声だ。
だけど、ミモザを知った時の彼女を見て、彼女が生きようとしているのではないか、と感じたのだ。あの時だけ、普段は仮面をつけているような彼女の息遣いが聞こえたような。
だが、分かってもいた。
知恵がつけば、この状況がもっと苦しくなるだろうことは。
だから、あの『知恵はつけるな』があるのだろうということも、理解していた。
ただ、無知のまま選ぶことすらできない状況は、もっとむごいのではないだろうか。
だから、ハウエルは答えられる限り、彼女の質問には答えるようになった。それが、彼女にとっての地獄になるかもしれない、と思いながらも、どこか願っていたいような、そんな自分勝手な思いだ。
そんなことも、分かっていた。
しかし、ハウエルは続けた。
「……たぶんこの辺りに……巣があるのでしょう。あぁ、やっぱり」
庭に植えられた低木のすぐ奥で、一生懸命尻を上げている雛の入った巣が見えた。
気づけばロゼッタもハウエルに倣い、蹲るように低木の奥にあるそれを眺めていた。
「あの一匹がカッコウの雛。あぁやってアオジに托卵させて、自分の子を他人に育てさせるのです」
だけど、カッコウも子を育てられない事情があるのかもしれない。
隣で同じように巣を眺めているロゼッタを思うと、そんな風に感じてしまう。
おそらく、ロゼッタは子を授かったとしても、自身で育てる力などないだろう。
そして生まれてくるかもしれないその子がアオジの雛なのか、カッコウの雛なのかは分からない。
その『生』が祝福されるものかどうかも分からない。
その子が、男児だったなら……。
セドリックがハウエルに何を命令するか分からない。
そう思い、ロゼッタを眺めた。
突然両親から奪われた彼女。
両親から奪われて、こんなところでその生を完全に支配されながら、全うしなければならないという、そんなこと人間の世界でしか起こらないのではないだろうか。
ハウエルはふたたび巣の中から、生まれたばかりだろう一羽を落とそうとするカッコウの雛を見つめていた。
アオジの雛が悲鳴を上げている。おそらく、先ほどはうまく逃げられた、最後の一羽。
ハウエルはその雛をただ無情に眺めていた。
力なきもの運なきものは、生きられぬ世界だ。
しかし、そんなハウエルの顔の横に白い腕がすっと伸ばされた。
「奥さま……?」
「こんなところにいたのね」
落とされたアオジの雛が、ロゼッタの小さな手に受け止められていた。
野生動物を拾って飼うことは、日本では法律で禁止されています。
もし、万が一保護しなければならないことがありましたら、お近くの保健所などで許可をもらってから飼ってくださいね。














