「ロゼッタの空」
ハウエル様の手を握りしめ、連れ去られるロドウェル卿を眺めていた。どこへ行かれるのかしら。そんなふうに。だけど、私の傍らに立つハウエル様のお顔を眺めると、ふいに焦燥感に襲われた。
違う、と思ったのだ。
化け物が兵隊さんたちに連れて行かれる……。
そう思って、頭を振る。
違う……。
私は、化け物のものじゃなくて……。
私は慌てて、もたれかかってしまっていたハウエル様から離れ、胸の上にある赤い石を取り外し、そのまま「ハウエル様、私、これをロドウェル卿にお返してきます」
と、言っていた。
ハウエル様が頷く様子が見えた。
大丈夫だという意味だ。
だから、私はロドウェル卿を目指して駆け出した。
待って、私、返さなくちゃならないの。
だって、私はあなたの物じゃないもの。
これは、そんな意味を持つ物だったんだもの。
小さなロゼッタがここにいたわけでもなく、……そう、これはまやかしのロゼッタだったんだもの。
ロゼッタは、ずっと私の中にいて、ずっと私の物だったのだもの。
そして、駆け寄る私に気づいた兵隊さんたちが、ロドウェル卿から私を守るようにしながらも止まってくれた。
私は彼らに足を止めさせてしまったことを謝ってから、息を整え、続けた。
「……これは……お返しいたします」
潰れたお顔は、鼻血の跡とところどころ擦り傷で痛そうだったけれど、そのお顔の前にペンダントを差し出した。ロドウェル卿の顔がみるみる怒りの表情に変わっていくが、私はその手を差し出したまま、じっとしていた。
――ぶたれても構わないわ。でも、返したいの。
そんな風にじっとして。
だけど、どこかで大丈夫だと思っていた。
だって、ここは、人がたくさんいるから。
だから、やっぱりロドウェル卿は、叫ぶしかできなかった。
「こんなもの……っ。こんなもの、お前にくれてやる」
その怒鳴り声が、ふたたび兵隊さん達が歩み出す合図になった。私はぽつねんと立たされたまま、放って置かれる。
――返せなかった……。
手の中に転がる赤い石。
どうしたらいいの?
何もできない。そんな私。
それなのに、そっと温かな雰囲気に包まれた。
どんなに立ち尽くしてしまっていても、助けてくれるのは、やっぱりハウエル様の存在で。呆然としている私のすぐ後ろに立って、私を支えてくれているような。
私の気持ちの発露を許してくれるような、そんな気がしてくる。
素直に話しても良い、そんな気がしてくる。だけど、まだそのお顔を確かめるのは怖いのも確かで、振り返れずに言葉が零れた。
「……受け取って、もらえませんでした……」
その言葉の後すぐ、彼の声がなんともなしに聞こえてきた。
「良いのではないのでしょうか? そこそこの石のようですし、貯えにはなり得ましょう」
貯え?
よく分からなくて、今度はハウエル様の顔を見上げると、連れて行かれるロドウェル卿を眺めている彼の顎があった。
そして、目が合う。
ロジェの色でもあるそんな瞳が、私に注がれている。
ハウエル様の言うことは、分かるようでよく分からないことばかり。
よく分からないけれど、何だろう……。
目を細められて、私の胸がどきどきしているの。
「ハウエル様?」
彼の穏やかな微笑みに、そう、どきどきしているの。
「ただし、私がいる前で、それを身につけることだけは、やめてくださいね」
やっぱりよく分からない。
私は目をぱちくりさせて、彼を見上げたまま、
「はい」
と答える。
よくは分からないけれど……。
そう、分からないのだけど。
温かいどきどきを胸に感じたまま、きっと、これは恐怖の鼓動ではない。
それだけは分かった。
だから、優しいお顔のハウエル様が私の手を取り言った時、答えはもう決まっていたのだ。
「ロゼッタ様、私とワルツを願えますか?」
だって、私に与えられた返事はずっとひとつしかないのだもの。
「はい」
私の返事と共に奏でられたのは、ワルツのための三拍子。
バイオリンが奏でる音は、春の風のような光を携えて、私が手にするぬくもりは、かじかんだ心を解かして、開いていく。だって、ハウエル様の大きな手がとても温かいの。春のお庭みたいに。ロジェを見つけたあの日みたいに。ミモザの夫人が微笑んだあの夜みたいに。その手が私をしっかりと捕まえていて。あの温かな鼓動がまだ止まらない。
どきどきと、ずっと。温かいのにどこか苦しくて。
ただ、ダンスを踊っているだけなのに。
ターンしてくるりと引き寄せられた先にあったのは、細められたあなたの黄唐茶色。
――ウェルと呼んでくれれば嬉しい
そんな言葉が蘇り、胸の奥がトクンと弾かれた。
嬉しい……?
その瞳に見つめられると、唇がもどかしく喉の奥にある『ウェル』を押し込めて、そっと視線を落としてしまった。顔がぶつかってしまいそうなくらいにある緑の上着に銀糸の模様。
銀の薔薇の刺繍が目に入り、小さな小鳥がそこにいた。思わず視線が上がる。
これは、ロジェ?
それなのにどんな言葉も声にできない。どうしてだろう。ダンスの途中だからじゃなくて、ただ言いたいのに言えない。そんな私の戸惑う視線に気づいたハウエル様が、何も言わずに微笑んだ。
ただ、ワルツが……ハウエル様の踏む三拍子と私の鼓動が重なり合って、心地よいリズムを刻んでいて。離れてもずっと繋がっている温かな手があって。
そう、ずっと。
いつまでも、ずっと。
この柔らかな時間の中にいたい。
そんな風に思った。
それなのに、音楽が無情にも止まってしまった。ワルツが終わる。
――呼んでくれれば……
ハウエル様の声がふたたび。
だけど、温かさを私に残して、その手は自然と離れていく。この手を放してしまっても良いの?
共に生きる……って。
たぶん……。ロドウェル卿と一緒にいた頃と同じようなものだとは思ったのだけど。ハウエル様が傍にいてくれるのが良いとは思ったけれど。
だから、あのお返事をして、ロドウェル卿に石を返そうとして……。あの石を返せば、ハウエル様ともっと時間を取れるんじゃないかしら。
ロドウェル卿のものじゃなければ、良いんじゃないかしら……。
そうも思ったけれど……。私はハウエル様と一緒にいたいと感じている。
でも、ダンスが終わってしまったから。お役目が終わったハウエル様は、きっと、酷い王様の元へ行かれてしまうわ。
さっきのお食事の時のように。
きっと寂しい。
それにあなたのお名前を……まだウェルと呼んでいないの。
お辞儀をして離れる前に。この手が離れる前に言わなくちゃ。
呼べば……嬉しい?
呼んでも良い?
行ってしまわれる前に。
葛藤の中でも、高鳴り続けるうるさい鼓動は、なぜかそれを後押しするようにして、その手を追えというようにして。私の口はゆっくりと、そして無意識に鼓動に従う。
「ウェル…………」
唇からはたとこぼれる。何を伝えたかったのか、分からない。だけど、何かが分かった気がする。
ウェルと呼ぶことは、特別。そう特別……だから。
だから、……。何かが壊れそうで不安になる。そんな気がした。
そんな胸の前に手をおいて、これ以上胸がうるさくならないように、壊れないように、収まるように押しつける。
ハウエル様の手が止まった。見上げた先には、刹那の驚きがあって。
私……。
ハウエル様、私……。
「行かないで……」
あなたを失いたくないの。
ハウエル様はそんな私にあの穏やかで安心できるお顔に微笑みを見せて、
「そう呼んでいただけて、嬉しいです。私はここにいます」
と、離れてしまっていた私の手をもう一度取って、私を丁寧に引き寄せたあと、こう言った。
ロゼッタ、私はあなたを愛しています。これからもあなたの傍にいさせてください。
と。
明日の午前中にエピローグで完結です。














