グランバル(ハウエルの饗宴)⑥
会場の主役は中央のふたり。
新王陛下セドリックとロゼッタだ。
いや、皆の中では王とその姪との認識なのだろうか。
そんな観衆のひとりであるハウエルは、しっかりとした足取りでステップを踏むロゼッタを見つめていた。
ヌーはメヌエットの巨匠と言われる過去の音楽王である。その王が、王家に捧げたとされるメヌエット。
練習曲と銘打ったものではあるが、それは十分に宮廷舞踏にふさわしいものであった。
流れるようなバイオリンは、風のイメージだと聞いたことがある。
これから飛び立つ新任の王が、好んでワルツの前に演じたとされるもの。
ロゼッタはそのバイオリンの風に乗るようにセドリックの手に触れ、ドレスを揺らす。弾かれた弦に合わせて、ステップを軽やかにする。
もちろんセドリックがリードの元である。
いくら、王族がまず習う舞曲のひとつだと言っても、いくら、セドリックがロゼッタの息に合わせているのだとしても、彼がアレンジするステップに彼女が合わせなければならないこともある。
しかし、すべて完璧に見えた。
そう、ロゼッタはまるで雛鳥のように親を真似て飛び跳ねたかと思うと、慕うようにそのセドリックの掌に合わせ、くるりと回る。
視線を合わせ、ゆっくりと近づき離れていく。
ふわりと上げた手に合わせ、ふわりと着地するように。
ほんとうに、その手を離れて飛び立つ若鳥のように一度離れた指先を、ふたたび合わせて、最初に戻る。
ふれあいの少ないこのメヌエットで大切なものは、ふたりの呼吸と同調性なのだ。
しかも、ロゼッタはセドリックの呼吸に合わせなければならない。
彼女は、それをやり遂げていた。
最初のステップから三十二小節で一区切り。
すっと風が止むように途切れたバイオリンの後、セドリックが、ロゼッタに丁寧なお辞儀をする。ロゼッタも、そのお辞儀に返すようにして、ドレスを広げ、深く頭を下げていた。
思わず拍手を送りたくなるが、この後正面に向かってふたりがお辞儀をするはずだからと、誰の拍手もまだ聞こえてこない。
しかし、ふたりが玉座正面に向かったその時、セドリックの言葉がハウエルの耳に届いた。
「よく仕込まれたものだ。褒めてやろう」
まっすぐロゼッタを見下ろしたまま。ロゼッタに顔を上げさせぬまま。ロゼッタと対照的なセドリックは息も上げずに、涼しい顔でわずかな笑みすらを見せている。
「だが、もう飽きた」
そして、ハウエルに視線を寄こした。これは合図だ。そう、もちろん知っていた。しかし、先にロゼッタに駆け寄りたくなる気持ちを抑え、主に返事を返した。
敬礼の後に、セドリックの許に駆けつけると、思わず、胸を押さえて今にも崩れ落ちそうなロゼッタを支えたくなった。
あんなに優雅に舞っていたのに、……。
どうして、こんなに無力なのか。ハウエルはこぶしを握り締めながら、唇を噛み締めた。ハウエルは、セドリックのお言葉を待って動くしかできないのだ。
しかし、ほんとうにそのまま頽れそうなロゼッタの息遣いに言葉が、思わず先んじてこぼれてしまった。
「陛下……」
セドリックの眼光がハウエルにまっすぐ刺さっていた。だが、ハウエルは構わず続けた。
「陛下とのダンスにご緊張なさったのでしょう。下がらせてもよろしいでしょうか?」
これは、ハウエルの二度目の反抗。
しかし、片頬をわずかに引き上げたそのセドリックは、機嫌の良い方だった。セドリックのこのご機嫌は、ロゼッタが勝ち取ったと言っても良い。
セドリックは、応えた者に辛く当たることはない。ハウエルはそれも知っている。
知ってはいるが、断定はできない。
それが、恐ろしい。ハウエルとセドリックの間に流れた一呼吸の後、「良いだろう。その者はよくやった。下がることを許してもいい」と、セドリックの答えが返ってきた。
その言葉にハウエルが大きく息を吐き出してしまいそうになった時、ふたたびセドリックの言葉が、ハウエルを止めた。
「……いや、……待て、ロゼッタよ。もう一度よく顔を見せてみろ」
そして、彼女自身でやっと持ち上げたその緑の瞳には、やはり恐怖の限界が滲んでいた。震えてまともに視線を合わせることもできない、そんなロゼッタのその表情を見て、セドリックは、――
……そう、頬を引き上げた。
この表情は、……。
ハウエルは緊張を走らせながら、震えたままのロゼッタに「行きましょう」と小さく囁くと、やっとハウエルを見たロゼッタが「はい」と、返事をしてくれた。その額にも汗が玉のように浮かんでいる。
「陛下、では失礼いたしたく」
ロゼッタの恐怖ほどではないのかもしれない。しかし、ハウエルも同じように、捕食者に睨まれた被食者だった。しかし、この緊張に全く気づいていない男が、のこのことやってきている。
ロドウェルが手もみをしながら、ロゼッタに近づこうとする姿を見て、ハウエルは思わず、ロゼッタを自身に引き寄せてしまった。
今、ロゼッタをこいつに引き渡したくない、そう思ったのだ。
たとえ、それが刹那であろうとも。
「ロドウェル卿、なかなか楽しい時間だったぞ」
その声にロドウェルが立ち止まった。
「いえ、陛下。陛下に楽しんでいただけたことが、なによりの私の喜びでございます」
ロドウェルの厭らしい声がハウエルの耳にももちろん届いてきた。
「そうか。それは良い心がけだ」
そして、もちろん、ロドウェルは気づいていない。その声が不機嫌に満ちていることなど。
「しかし、ロドウェル。貴様の夫人の瞳は、こんなにも荒んだものだったか?」
会場にいるものすべてが、凍りついた。
ロゼッタという名ではなく、姪でもなく、“ロドウェルの夫人”だと彼に所有を返した上での発言だったからだ。
かつて姪であった者、そして今はそのロドウェル卿の夫人。
その声は、決して良い響きを持っていなかったのだから。
「仰っている意味が分かり兼ねますが……」
おそらくロドウェルはまだ完全には気づいていないのだろう。そして、全てを沈めるようなセドリックの声が、滔々と会場に響いた。
「あれの瞳は、貴き血の証。その瞳を穢した罪は、とても深い、と申した」
そして、やっと脂汗を掻きはじめたロドウェルが、まだ自分の立場を分からずに、虚勢を張ってにやついた。
「はて、何のことだか? 陛下は、私の恩をお忘れでしょうか?」
と。
本当に愚かだ。そして、この沈黙が意味することは奴の最後だ。
奴は完全に踏み間違え、最悪のルートへと迷い込んだ。
そんなことを見届けたハウエルは、ロゼッタを支えたまま、セドリックから“許された退き”をゆっくりと始める。ロゼッタの手はとても冷たく、体の震えも止まっていない。
しかし、恐ろしく白い顔でハウエルに微笑みかけたロゼッタは、ただそのままハウエルに寄り添いながら歩いてくれていた。
それが、ハウエルの自責の念を深める。しかし、その微笑みに救われる。とても自分勝手で、だから、救いたいんだ、そう思う。
それなのに、完全に退けない自分が、今彼女をこうして拘束しているのだ。
縋られている、そんなことを利用して。
そんなふたりのわずか向こうから、ふたたびセドリックの氷のような声が落とされた。
「私は、貴様が望むままに貴き血を与えたはずだ。恩など着せられた覚えはないぞ」
それでも、ロドウェルは不服を申し立てた。いや、これは反抗か。セドリックの掌の上で上手く踊れなかった奴の歯ぎしりが聞こえてきそうなくらいの、手向かいだ。
「後ろ盾になってやった恩だ。お前など儂がいなければ……お前など、お前のような小童などすぐに貶められるんだぞっ」
ハウエルは、達観してしまったようにロドウェルを眺め、自身にそれを置き換えていた。
お前が対峙している相手は、化け物の上に立つだろう魔王だ。
お前などが、決して歯向かっていい相手ではない。
そう、小童は己自身なのだから……。
そして、愚かにもセドリックに掴みかかろうとしたロドウェルは、その場でセドリックの護衛たちに組み伏せられていた。
「何をする! 儂を誰だと。おいっ!」
セドリックは安全な場所から、それを見物でもしている心持ちなのだろう。そして、それはハウエルもまた。
そんな風に感じたハウエルの胸の奥底には、確かに薄暗い霧が湧きたち始めていたのかもしれない。
「ハウエル、聞いたか?」
「えぇ」
「これは不敬にも問えることだな?」
「はい。確かに陛下を侮辱する言葉と存じます」
「皆のものも聞いたであろう。そうだな、罪状を言い渡そう。不敬に続く不敬。貴様に与えたすべてと、その貴き血の証も返してもらおうか」
王の言を聞き届けた聴衆は、その様子を見渡す観衆となり、視線を巡らせた観衆の言葉が断片的に、それなのにはっきりと意味を成して広間の中を渦巻いた。
あの男は王家と繋がったと自慢していた。その娘は儂の自由だと。威厳だけで生きているようなあの王族を踏みつけられるのだ。あの若造は、自分の親族を儂に与えてまで、儂を欲しがったのだ。なんて愉快じゃないか。
お前も、一枚噛んでみないか?
同じように良い思いをさせてやろうじゃないか。
――私はやってないぞ。あの男に誘われはしたが。
……誘いに乗った奴はいるのか? いや、……。最近羽振りの良いロドウェルには近づいた。だが……。もともと、あいつはあんな奴じゃないか。
陛下もそれをご存じで、今までだって目を瞑って……。富を持つこの男を陛下も利用して……。
いや、貴き血はあの方が嫌う色。そうだ。アークジバン王の信頼を失墜させた、あの不祥事意を起こした王太子があの色だった。そして、陛下自らが処分した。
あの娘は……その娘。ロドウェル卿と繋がったセドリック陛下とをつなぐ、あの娘は……。
――陛下にとって本当にどうでも良い者、だったのか……?
いや、それよりも陛下の横に立つ男……ハウエル・バーデンダーク。
爵位もなく冴えもしない人形のようなあの、従士。
あいつがすべてを証明するのか?
観衆の誰もが青ざめ、目を伏せ始めた。
私たちは関係ない。関係ないぞ。
――だったら、なぜ、今さらその娘を持ち上げる?
悪魔なのだ。あのお方は、血も涙もない悪魔。あんな男に関わるべきではなかった……。
そうか……だから、あの従士の男が招待状を持って現れていたのか……。
あの従士は、いつもあのお方のそばにいた……男。
この就任式は、悪魔の目に留められるという儀式だったのだ。
そんな声が、ハウエルの耳に聞こえてくるようだった。














