「砂糖菓子が広げる魔法」②
「お昼過ぎにハウエル様が到着するそうです。おそらく旦那さまとお話になってからおいでになるとは思いますが、その頃にお茶を持ってまいりますね」
そう言ってメイドのモナは出て行った。
ロドウェル卿が怒った理由は、もしかしたらこれなのかもしれない。
ハウエル様が戻っていらっしゃる。
だけど、旦那さまとお話をして、お客様として……客間でだなんて。
それは、いつもと違うことだった。
メイドの名前を尋ねたのは、ふとメイドを名前で呼んだことがないことに気がついたから。
でも、どうして、私がメイドの名前を呼ぶなんて思ったのだろう。
「あなたのお名前はなんて言うの?」
だけど、モナは嬉しそうに教えてくれた。
今まで呼ぶ必要のない生活をしていたのだから、これからも変わらないはずなのに。
ぴ。
あんまりもぼんやりとしていたものだから、ロジェが私の傍に飛んできて、手の甲に止まっていた。
私はベッドに腰を掛けていて、その小さな小鳥を眺める。
「ロジェ、この匂い平気なの?」
モナが背中に湿布を貼ってくれたのだ。悪い臭いだとは思わないが、薬のような緑臭いが凝縮された刺激臭で、さっきから鼻と喉と、背中がスースーするのだ。
そして、そのスースーと共にしばらく安静、と言われた。
だから、モナが呼びに来るまではこうして安静にしておかなくちゃならないのだろうな、と座っていたのだ。
だけど、ハウエル様が戻ってこられたということは、ロジェを空へ放つ日なのだ。
「ロジェと、お別れなのかしら……」
何にも分かっていないロジェは『ぴぴぴ』と歌って、首を傾げる。
「ロジェは、空を飛びたいものね。お別れしなくちゃならないわね」
ロジェを空に放つことを少し待って欲しいと仰ったのはハウエル様で、私は早くロジェを放ってあげた方が良いのではないか、と思っていたはずなのだ。
大きな空の中、きっと自由に飛び立って、たくさん知らないことを知って、私ではなくて、本当の友達に出会って、……。
「ロジェのお友達は優しい子だったらいいな」
だから、そう。
寂しいけれど、そうがいい。
一時くらいは過ぎただろうか。窓から差し込む太陽の光が、はっきりとした色味を帯びてきたように思う。
扉が三度叩かれ、モナの「失礼いたします」が聞こえてきた。
「旦那さまがお呼びです」
私はロジェを両手で包み、そのまま蒲公英色のクッションにそっと乗せた。
「ロジェ、もう少し待っててね。空までもう少しのはずだから」
ぴ。
ロジェはやっぱり首を傾げながら、可愛らしい声を出した。
廊下を歩く。お昼間の燭台にはもちろん蝋燭の火は灯されておらず、剝き出しの煤けた芯がなんだか残酷に見える。
灯りがある時は、あんなに温かそうに思えたのに。
この廊下の先には、ロドウェル卿がいて、ハウエル様がいて。
いつもと同じようにお客様をお迎えするのなら、私はロドウェル卿の言葉通りに動かなければ、後でまたぶたれるのだろう。
ハウエル様に、そんな私を見られたくない。
そんな気持ちが、ふつりと現れ、胸の前で両手の指を絡めて不安を取り除こうとしていた。
「奥さま、怯えなくても大丈夫です。今日のハウエル様は王の命を持つ使いという立場だそうです。旦那さまが奥さまを好きにできるとは思いませんから」
モナが前を向いたままなのに、私の様子に気づいて、静かに言葉をくれた。
「分かるの?」
「えぇ、奥さまが不安でいらっしゃることは、……常々感じておりました。だけど、お助けできず申し訳ありませんでした」
淡々とした声だけど、とても素直で率直な言葉に思えた。
私は彼女に見えるはずがないのに、そのまま小さく頭を振ってしまう。
モナだって私を庇えば、ぶたれるのでしょう? さっきも庇ったからぶたれたのでしょう?
以前のメイドは、私と一言お喋りしただけでいなくなってしまったわ。
ロジェのご飯も持ってきてくれるあなたとお別れだったら、嫌だもの。それで良かったのよ。
それなのに私の頭は言葉をうまく整理してくれない。
「モナ……」
その後の言葉が続かない。
どう言えば、いいのだろう。
謝らないで……はいけないように思う。だって、謝るのって勇気がいるものだから。
私は、何とも思っていない……も嘘になる。痛いのは嫌だった。でも、助けて欲しいと思ったこともなかった。
そんな逡巡が、私とモナの間に沈黙として続いて、時は無残にも応接間の扉の前に私を導いてしまっていた。モナが振り返る。
だけど、その口から出た言葉は「奥さまどうそお入りください」ではなく、別の言葉だった。
「奥さま、庇いだては結構ですよ。私はこのお屋敷に仕えております。その屋敷の主人のためにならず、庇いだてられては、私が役立たずのままで良いと言われているようなものです。だから、奥さまにこれまで通りお仕えすることをお許しくだされば、それで」
そして、扉が開いた。
扉の向こうにはホストとしてのロドウェル卿、そしてその隣に主賓としてのハウエル様が座ってらっしゃった。
「ロゼッタ、遅かったじゃないか」
穏やかを振りまくロドウェル卿の言葉に、私は肩を驚かせてしまい「申し訳ありませんでした」と言う声まで、上ずってしまった。
どうしましょう。
慌てて頭を低くする。
十秒も経っていなかったと思う。だけど、それが三十秒くらいには感じられた時、ハウエル様の春のように温かく伸びる声が聞こえてきた。
「奥さま、頭をお上げください。今まで卿と話し込んでいたのです。むしろちょうどいい頃合いでした」
顔を上げると、ハウエル様が微笑んで立ち上がっていた。
「さぁ、どうぞおかけになってください」
でも、そこは……。
そこは、私が座る場所じゃなくて、……。
私はこちらの扉に近い向かいの席について、お茶を淹れたり指図に答えることがお仕事で。
……だから、……。
「奥さまは、こちらに座るものですよ。そうですよね、卿」
ハウエル様の言葉に、ロドウェル卿が、苦虫を噛み潰したように「もちろんだ、ロゼッタ。そんなことも忘れたか?」と無理に笑おうと頬を引きつらせ、ハウエルに視線を移し、別の言葉を発する。
「ハウエル殿。妻は楽しい会話もできません。戸惑うだけですので、下がらせましょう」
それを聞いただろうハウエル様なのに、とても不思議なことを続けた。
まるで、ロドウェル卿の言葉などなかったかのようにして。
「いいえ、ぜひ奥さまとお茶も一緒にいただこうと思っておりました。王都の方で流行りだというお菓子もメイドに預けていますので、それもご一緒に。王都のご婦人方がこぞって手に入れようとしている品です。我々だけで食べるのはもったいない。それに、喜ばしいことをお知らせしておかなければ、奥さまも突然では驚かれますでしょうし。さぁ、こちらへ」
戸惑い続ける私に彼はそっと手を伸ばし、ソファまでエスコートしてくれる。
まるで、お姫さまのように。
お姫さま……。
お母さんの言っていたお姫さまに、私、なったみたい。














