第9話 ルイ・オーギュスト(1)
馬車の車輪が、ヴェルサイユへと続く石畳を重々しく踏みしめていた。
パヴィヨン館での衝撃——あの「未来の予言」から数日。マリーの精神は、常に綱渡りのような危うさの上にあった。鏡を見るたび、自分の華奢な首元に目がいってしまう。断頭台なんて見たことはないけれど、その刃の冷たさは想像できる。それが今も自分の皮膚に触れているかのような錯覚。生首の残像。そして、自分と共に殺されるという“夫”の存在。
「殿下、もうすぐコンピエーニュの森でございます。国王陛下と王太子殿下がお待ちかねでございますよ」
侍女の言葉に、マリーは膝の上で固く握りしめた手にぎゅっと力を込めた。ドレスの豪奢な絹の擦れる音が、今の彼女には棺桶の蓋を閉じる音のように聞こえた。
(……怖い。行きたくない……)
心の中で震える声に、脳の奥底から冷ややかな嘲笑が返ってきた。
『おいおい、大丈夫か?小さな王女様? そんなんで挨拶に行ってみろ。フランスの貴族どもに“オーストリアの牝豚は度胸もねぇ”って鼻で笑われるのがオチだ』
(……シャルル、お願いだから黙っていて。私、いまそれどころじゃないの……!)
『ふん。だが、これだけは言っておく。周りの連中をよく見ろ。全員、お前を値踏みするための“目”しか持ってねぇ。お前は人間だと思われてねぇんだ。ただの“品物”なんだよ』
シャルルの言葉通りだった。馬車の窓の外、沿道を埋め尽くす群衆や、騎馬で護衛するフランス貴族たちの視線。そこには歓迎の光などなかった。あるのは、異国からやってきた十四歳の少女を解剖でもするかのような、品定めと警戒に満ちた好奇の視線だけだ。
(この人たちが……市民全員が……私を憎むようになるの? 私が贅沢をして、国を傾かせる悪女になるから……?)
胸が痛む。吐き気がこみ上げる。自分はただ、母の命に従って嫁いできただけなのに。
やがて馬車が緩やかに速度を落とし、停止した。扉が開かれ、眩いばかりの五月の光が車内に差し込む。まばゆい光の向こうには、絢爛豪華な衣装を纏った最高峰の権力者たちが、絵画のように居並んでいた。
「王太子妃殿下、お降りください」
差し出された手を取り、マリーはゆっくりと馬車を降りた。 風が吹き抜け、彼女の黄金色の髪を揺らす。
目の前に立っていたのは、豪奢な礼装に身を固め、重厚な威厳を放つ老人——国王ルイ十五世だった。その隣には、豪奢な上着に身を包んだ、大きな体の少年が立っている。
彼が、ルイ・オーギュスト。私の夫となる人。そして……私と共に、首を刎ねられる男。
『へっ……なんだあいつは』
シャルルの呆れたような声が、マリーの脳裏に響いた。
『肩は丸まって重心は後ろに逃げている。眼球の動きが無駄に多くて視線が定まらねぇ。身体のデカさに精神が全く追いついてねぇぞ。軍人なら初日でしごき倒されて即脱落するタイプだな』
(シャルル、失礼よ……! あの人は王太子なのよ!)
『王太子ねぇ。あんな頼りねぇ背中で一国を背負おうってのか? 見掛け倒しにも程があるぜ。あいつ、お前のことを見るのが怖くて下ばかり向いてやがる』
マリーはシャルルの雑音を必死に無視し、教え込まれた通りの最も美しい優雅な礼を捧げた。
「お初にお目にかかります、国王陛下。そして……王太子殿下」
「よくぞ参られた、愛らしいマリー」
ルイ十五世は老練な笑みを浮かべ、マリーの頬に手際よく親愛の口づけを落とした。王の所作には、長年にわたって洗練された美しさがあった。しかし、問題はその隣の少年だった。
「……王太子。挨拶を」
王に促され、ルイ・オーギュストが一歩前に出た。 体格は大きく、肩幅もある。だが、その動作は酷くぎこちなく、まるで借りてきた衣服を着せられた人形のようだった。彼はマリーの顔を正面から見ることができず、彼女の視線からわずかに逸れた空虚な空間を見つめている。
「……は、初めまして。マリー・アントワネット殿下。フランスへ……よく、お越しくださいました」




