第10話 ルイ・オーギュスト(2)
低く、割れたような声。途切れ途切れの言葉遣い。マリーの知るオーストリアの皇子たちや、フランスの洗練された貴族たちとはあまりにもかけ離れた、不器用で、どこか怯えたような挨拶だった。
マリーは息をのんだ。
頭の中で、シャルルが以前吐き捨てた凶悪な言葉がリフレインする。
- 民衆はお前と、お前の間抜けな旦那を捕らえ……断頭台の上で、首を刎ねる -
恐ろしい暴君。救いがたい愚者。横暴な貴族の頭領。マリーはどんな「怪物」が目の前に現れるのかと身構えていたのだ。 しかし、目の前に立っているのは——ただの、ひどく人見知りで、己の大きすぎる体に戸惑っているような、気弱な十五歳の少年だった。
(この人が……私と一緒に首を刎ねられるの? この、優しそうな男の子が……?)
混乱するマリーの前で、ルイ・オーギュストは冷や汗をかきながら、ぎこちなく右手を差し出してきた。エスコートするための手だ。
(震えてる……)
マリーの目の前の大きな手は、所在なく小刻みに震えている。ルイ・オーギュストの瞳の奥にあったのは、マリーに対する敵意でも、あでやかな王妃を迎える歓喜でもなかった。
(……一緒だ)
マリーの胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
見知らぬ国に放り込まれ、一糸まとわぬ姿で品定めされ、未来の恐怖に震えている自分。 そして、この巨大な宮殿の中で、期待という名の重圧に押し潰されそうになりながら、居場所なく立っている彼。
マリーには、ルイの抱えている不安が自分と似通ったものであると、なんとなくそんな確信を持つことが出来た。
マリーはそっと、ルイ・オーギュストの差し出した手の上に、自分の小さな手を重ねた。
「……っ」
ルイ・オーギュストがビクッと肩を震わせ、驚いたように初めてマリーの目を直視した。彼の瞳は澄んだ淡い青色で、そこには何の悪意も、不遜さも存在しないように思えた。
「お手伝いいただけますか、殿下。私……少し、長旅で足元がおぼつかないのです」
マリーがフランス語でそう囁くと、ルイ・オーギュストの緊張がほんのわずかだけ解けた。彼はコクリと大きく頷き、マリーの手をギュッと握り返す。その手は無骨で、爪の間にほんの少しだけ黒い汚れが残っていた。
「あ、ああ……任せてください。転ばないように、ゆっくり歩くから」
彼の不器用な優しさが、手のひらから伝わってくる。
(この人は、悪魔なんかじゃない。私を不幸にするために待っていた人じゃない……)
安堵にも似た温かい感情が、マリーの胸を満たしかけた——その時だった。
『ハッ、おめでてぇ頭だな、小さな王女様』
氷水を浴びせかけられるようなシャルルの声が、マリーの頭に響いた。
『その親切そうな坊ちゃんがな、お前が民衆に叩かれてる時、何をしたと思う? 何も出来なかったんだよ。お前を守る決断も、国を救う決断もできずに、あいつは鍵ばっか弄ってた臆病者だ。結果としてお前たち二人は、民衆の怒りを全部背負わされて、首を切り落とされたんだよ』
(やめて……! 今はそんなこと言わないで!)
『現実を見ろよ。その手はお前を救う手じゃねぇ。お前を断頭台まで引っ張っていく死神の手だ』
(何で……何でそんな事を言うの?そんな酷い事を……)
『言ったろ。俺は王侯貴族とクソムシが死ぬほど嫌いなんだよ。お前達が贅沢な暮らしをするために、どれほどの子供が餓死してると思ってるんだ』
(餓死……?)
『ああそうだ。お前が食べる甘い菓子や宮廷料理は、ぜんぶ死んだ子供の血と肉と悲しみで作られてるんだよ!それをよく味わって楽しむんだな!』
脳裏に、強烈なイメージが焼き付く。食べるものが無く痩せ細って死んでいく子供たち。その亡骸を抱きしめながら嗚咽を漏らすやせ細った母親。宮殿の豪華絢爛な回廊の床が、ぬかるんだ断頭台の木板へと変わっていく錯覚。
「……殿下? どうかされましたか?」
マリーの手が急に冷たくなり、ガタガタと震え出したことに気づき、ルイ・オーギュストが心配そうに覗き込んできた。彼の純粋な懸念の表情が、かえってマリーの胸を強く締め付ける。
(ああ、神様……。どうしてこの人を、私と同じ地獄へ引きずり込んでしまうのですか?)
「いいえ……なんでもありません、王太子殿下」
マリーは精一杯の微笑みを作った。作り笑いなど一度もしたことがなかった少女が、初めて身につけた宮廷の「仮面」だった。
「ただ……貴方とお会いできて、嬉しかったのです」
ルイ・オーギュストはその言葉に、少しだけ頬を赤く染めた。
マリーの言葉は半分が嘘で、半分は悲しい真実だった。
遠くで、ヴェルサイユの到着を祝う祝砲の大砲が、ズシンと重たく鳴り響いた。群衆の歓声と、豪華な軍楽隊の奏でる音楽が、二人を包み込んでいく。
その華やかな喧騒の真ん中で、十四歳の王女と十五歳の王太子は、互いの手にすがりつくようにして宮殿へと歩みを進めていった。




