第11話 断頭台の花嫁
1770年5月16日
ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂は、無数の蝋燭が放つ眩い黄金の光に包まれていた。
重厚なオルガンの旋律と聖歌隊の歌声が高天井に反響し、シルクや宝石で着飾った王侯貴族たちが息をのんで見守っている。フランス王太子ルイ・オーギュストと、オーストリア王女マリー・アントワネット。長年争い続けてきた二大強国が結ぶ、歴史的な婚礼の儀式だった。
(重い……息が、できない……)
マリーは、銀糸とダイヤモンドの刺繍がびっしりと施されたドレスの重みに押し潰されそうになっていた。
パヴィヨン館で見た凄惨な生首の残像。そして、頭の中の男——シャルルが突きつけてきた、あまりにも悲惨な「現実と未来の予言」。
『お前はフランスの王妃になった後、民の苦しみも知らずに贅沢と浪費を尽くす。……そして断頭台の上で、民衆に首を刎ねられる』
首筋に、ひやりとした冷気が走る。鏡で何度も見た自分の細い首。その皮膚の上に、まだ見ぬ冷たい鉄の刃が押し当てられているかのような錯覚。幾重にも重ねられた豪奢なレースも、輝く首飾りの重みも、いまのマリーには自分を死へと閉じ込める棺桶の飾りにしか思えなかった。
(私は……本当に二十三年後に首を斬られてしまうの? この煌びやかな宮殿の全員に嫌われて、血の海の中で殺されるの……?)
足元がガタガタと震えそうになるのを、彼女は重い絹の裾の下で必死に耐えた。
その隣で、新郎であるルイ・オーギュストもまた、別の冷や汗をかいていた。
(……えっと、次は……右足を一歩引いて、聖水を受領するんだったか?いや、待て。司教様の手のひらを取るのが先だったか……?)
ルイの頭の中は、複雑極まりない宮廷儀式の作法で今にも破裂しそうだった。大きな体に無理やりあわせられた金の刺しゅう入りの礼服は動きを奪い、背中を嫌な汗が伝う。
横に立つ十四歳の小さな花嫁の作法は、非の打ち所がなかった。幼く、可憐で、まるで磁器の人形のように美しい。それに比べて自分は、歩き方はぎこちなく、挨拶の声は裏返りかけ、すでに何度も作法を間違えそうになっている。
ルイは握りしめた拳の中で、何度も呼吸を整えようとしていた。
純粋で不器用な少年の焦りと、未来の死に怯える少女の絶望。ふたりの精神が交錯するその頭の奥底で、第三の存在が静かに吐息を漏らした。
『くだらねぇ。こんな事に金を使っている間にも、貧民の子供は死んでいってるんだ』
シャルルの言葉が、マリーの心臓を激しく叩く。
やがてオルガンの音が引き、礼拝堂全体に重々しい静寂が訪れた。ステンドグラスから差し込む光が、わずかに陰る。
黄金の祭壇の前で、ランス大司教が金箔の聖書を抱えて一歩前へ出た。静寂の中で、低く通る声が天上に響き渡った。
「……神の御名において、問いかけます。王太子ルイ・オーギュスト殿下。汝は、このマリー・アントワネット殿下を正しき妻とし、病める時も健やかなる時も、これを愛し、敬い、生涯守り続けることを……『永遠の愛』として神の御前に誓いますか?」
重い問いかけが、空間に落ちた。
ルイ・オーギュストは、ゴクリと唾を呑み込んだ。全身の血が逆流するような緊張感。けれど、彼は胸を張り、隣に立つ小さく震える花嫁の横顔をじっと見つめた。
自分は不器用だ。王太子としての器量もないかもしれない。けれど、この遠い異国から嫁いできた小さな少女を、一生かけて守るのだという決意だけは本物だった。
ルイは背筋を伸ばし、一生懸命に声を張った。
「……はい。誓います」
その声を聞いた瞬間、マリーの胸が締め付けられた。
彼の横顔に見えたのは、自分に向けられた純粋な優しさと、幼い覚悟だった。この人は本気で言っている。私を守ろうとしてくれている。
だが——だからこそ、恐ろしかった。
司祭の視線が、今度はマリーへと向けられた。
「……王太子妃マリー・アントワネット殿下。汝は、このルイ・オーギュスト殿下を正しき夫とし、神の御前に……永遠の愛を誓いますか?」
喉がカラカラに乾いていた。言葉が出ない。
「はい」と答えた瞬間、自分はフランスの王妃となり、シャルルの言う「断頭台への運命」へと足を踏み入れることになる。この少年の手を取るということは、彼を私と共に死へと引きずり込むことなのだ。
(言えない……。言っちゃダメ……!)
だが、視線の端には、彼女の返答をじっと待つルイの澄んだ淡い青色の瞳があった。引き返せる道など、最初からどこにも存在しない。
マリーは爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめ、冷たい刃を首筋に感じながら、震える唇を開いた。
「……はい。……誓います」
二つ目の「はい」が、礼拝堂の静寂に溶けていった。
ルイがマリーの手をとって、指に小さなリングを優しく嵌める。そのリングの輝きを確認して、ちょっと満足そうに、そして何より恥ずかしそうにマリーの目を見て微笑んだ。
その純粋な笑顔を見た瞬間、マリーの心臓に鋭い罪悪感が突き刺さった。
(ああ……ルイ様……。私はあなたを、私と一緒に断頭台へ連れて行ってしまう……)
胸をかきむしられるような思いにマリーが唇を噛みしめた。
貴族たちは口々に祝福の言葉を贈る。拍手に包まれたルイは緊張が解け、晴れやかな顔をしている。マリーだけが青ざめ、ガタガタと震えていた。
『……最高の処刑名簿だ』
今、歓声をあげる美しい伯爵夫人。二十数年後、髪を乱し、泣き叫びながら牢獄へ引かれていく姿。
胸を張り拍手を送る若き貴族。血と汗にまみれ、生気を失った顔で断頭台の階段を登っていく姿。
未来の歴史を知る者としての優越感と、特権階級に対する本能的な嫌悪。火星同盟の兵士として、地球帝国の専制君主や貴族と戦ってきた男の瞳には、目の前の華やかな貴族たちが、やがて屠畜場へ運ばれる豚の群れにしか映っていなかった。
(シャルル……あなたには、何が見えているの……?)
マリーは恐怖に震え、その場に崩れ落ちそうになる膝を必死で叩いた。
その瞬間、ふっと、彼女の指先が温かい体温に包まれた。
ハッとして隣を見ると、ルイが彼女の手を、ぎこちなく、けれど力強く握り返していた。
貴族たちの喝采が鳴り響く狂乱の中で、ルイはマリーの耳元に顔を寄せ、小さな声で囁いた。
「……怖かったですか?」
マリーは息をのんだ。
見上げると、そこにあったのは、自分と同じように全身の汗を拭い、緊張で唇を固く結んだ十五歳の少年の顔だった。
ルイは困ったように、照れくさそうに小さく笑った。
「僕も……少し怖かったです」
その言葉と、自分以上に汗をかいた彼の温かい手。 自分の緊張や恐怖を、この不器用な少年はちゃんと見ていてくれたのだ。
マリーの胸の奥で、冷え切っていた何かがゆっくりと解けていく。
「ルイ様……」
胸を突くような愛おしさと小さな希望が、絶望の暗闇の中に灯る。
マリーがルイの温もりを感じ取り、ほんの僅かに微笑みかけた。
歓喜のオルガンが最高潮に達し、頭上で巨大な鐘が鳴り響く。
晴れやかな顔で祝福を送る貴族たち。 互いの温もりに救われ、小さく微笑み合う幼い夫婦。 そして、その頭上で残酷な未来を見据え、一人冷たく冷笑するシャルル。
マリーは無意識に、指に嵌められた冷たいリングへ触れた。それは確かに、不器用な少年と交わした温かい夫婦の証だった。しかし同時に、この血塗られた未来へと二人を繋ぎ止める、最初の鎖でもあった。




