第12話 初夜
昼間の眩い狂乱が、まるで遠い夢だったかのように消え去っていた。
何百人もの貴族たちが上げた歓声も、荘厳なパイプオルガンの旋律も、空を揺らした祝砲の轟音も、いまのヴェルサイユにはひとかけらも残っていない。
広い寝室を支配していたのは、息が詰まるほどの重々しい闇と静寂だった。
かすかに響くのは、壁に置かれた巨大な時計が刻む規則正しい針の音と、銀の燭台で揺れる蝋燭が時折爆ぜる音だけ。マリーは、広大すぎるベッドの端に、白いナイトドレス姿でぽつんと一人座っていた。
昼間の重厚なウェディングドレスと輝く宝石は脱ぎ捨てたはずだった。それなのに、胸を締め付ける圧迫感は一向に消えてくれない。
自分を値踏みする何百もの冷ややかな目が消えた部屋で、マリーはかえって別の恐怖に震えていた。これから足を踏み入れる「フランス王太子妃」という底知れぬ未来の闇が、彼女の華奢な身体をそっと覆い尽くしていく。
その時、重厚なオーク材の扉が、静かに滑るような音を立てて開いた。
マリーの身体が跳ねるように強張る。
部屋に入ってきたのは、髪を解いたルイだった。豪華な金の刺繍が施された礼服ではなく、質素な白い寝衣を纏った彼は、昼間の凛とした姿からは想像もつかないほど、小さく頼りなく見えた。
ふたりきりの室内に、ピンと張りつめた空気が漂う。
手が触れそうな距離まで歩み寄ってきたルイだったが、どうしてもマリーの顔を直視することができないようだった。俯いたまま、緊張で大きな指先をぎゅっと固く握りしめている。
「……すみません」
ぽつりと落とされたその言葉に、マリーは驚いて顔を上げた。
「……殿下?」
「僕……あなたを不安にさせていると思います」
ルイの声はかすかに震えていた。
そこにいたのは、命令を下す権力者でも、頼もしい新郎でもない。己の不器用さに戸惑い、葛藤している十五歳のひとりの少年だった。
「僕……」
ルイはそこで一度、言葉を止めた。喉がキュッと詰まったように唇を噛みしめる。フランス王太子として、己の未熟さや弱音を晒すことがどれほど危険か、彼は教え込まれてきたはずだった。それでも——目の前で不安そうに自分を見つめる少女には、嘘をつきたくなかった。
「……僕は、立派な王太子になれないかもしれない」
ルイは恥じるように小さく視線を落とした。
「政の難しさより、部屋に閉じこもって鍵の構造を調べている時が一番落ち着くんだ。そんな王太子らしくない妙な趣味ばかりに夢中になって……あなたを失望させるような、頼りない夫になるかもしれない」
それは自虐や過剰な自己否定ではなかった。これから巨大な国家を背負っていくことへの深い畏怖と、目の前の少女の期待に応えられるだろうかという、あまりにも誠実な不安だった。
不器用な言葉。だが、その裏にある想いにマリーの胸が熱く締め付けられる。
「ルイ様……」
マリーの心に、そっと温かい灯火が点りかけた——まさにその時だった。
脳腔の暗闇、言葉の届かない深い底から、あの冷たい声が差し込んできた。
『……だから……残酷なんだよ』
マリーの息が止まる。
(シャルル……?)
『お前ら二人とも、相手を守ろうと思っている。……だから……余計に残酷なんだよ。歴史って奴は、そういうものから先に壊していく』
シャルルは、それ以上何も言わなかった。いつもなら吐き捨てるように未来を嘲笑する男が、今だけは沈黙していた。その沈黙の方が、マリーには恐ろしかった。恐ろしい未来を予見させる沈黙だった。
マリーは爪が食い込むほど拳を握りしめた。シャルルの静かな言葉を振り払うように、自分の胸の奥で渦巻く不安を振り切るように、彼女は勇気を振り絞って手を伸ばした。
そして、ルイの寝衣の袖を、小さく、すがるように掴んだ。
「……殿下」
ルイがハッとしてマリーを見つめる。
「もし……もし私が、みなさんの期待されるような、立派な王太子妃になれなかったら……?」
震える声での問いかけ。
ルイは驚いたように丸い瞳を見開いた。そして、自分の不安を和らげるように、どこか胸のつかえが下りたような、晴れやかな笑顔を小さく浮かべた。
「……その時は、僕も一緒に失敗します」
「え……?」
「僕も、立派な王太子にはなれそうにない。だから……一緒に失敗しながら頑張りませんか」
マリーの胸がキュッと締め付けられた。
完璧な王子として導いてくれるのではない。一緒に迷い、一緒に失敗し、同じ目線で歩んでくれる。その不器用で対等な言葉は、昼間の聖堂で交わしたどんな大層な儀式よりも、はるかに強くマリーの心に響いた。
ルイは照れくさそうに顔を赤らめると、ぎこちない動作で、マリーの額に一瞬だけ優しく唇を寄せた。
「おやすみなさい、マリー殿下」
ふたりは同じ広大なベッドに入り、左右の端へと身体を横たえた。中央にはぽっかりと距離が空いている。十四歳と十五歳の二人にとって、それが精一杯の距離感だった。
けれど、二人の手だけはベッドの中央で手繰り寄せられ、固く、温かく握り合わされていた。
やがて、重なり合う二人の静かな寝息だけが、暗闇を満たしていった。
マリーの顔には、フランスへ来てから初めて見せる、幼く安らかな笑みが浮かんでいた。ルイもまた、握った手を決して離さないまま、穏やかな顔で眠っている。
その二人の寝息を、マリーの脳内から見つめる存在があった。
『……馬鹿な奴らだ』
暗闇の中、静かに言葉が落ちる。
『幸せそうに寝息を立てやがって……』
マリーが目をつむっているのでシャルルの視界も暗転している。しかし、マリーの耳からは穏やかなルイとマリーの寝息が、マリーの手からは柔らかい少年の手と、少し汗ばんだマリーの手の感触が伝わってくる。
『……だから歴史って奴は嫌いなんだよ』
壁に掛けられた古びた大時計の針だけが、二人の知る由もない未来へ向かって、静かに時を刻み続けていた。




