第13話 孤独な王太子妃(1)
鏡の中に映る己の姿が、マリーにはどうしても見知らぬ他人のように思えてならなかった。
絹の肌着の上から幾重にも締め上げられたコルセット。息を吸うたびに肋骨が悲鳴を上げ、皮膚が引きちぎれるような痛みが走る。その上に重ねられるのは、膨大な量の鯨骨で広げられたパニエと、重厚な銀糸の刺繍が施された絹織物のドレスだった。
「――殿下、少々お首を伸ばしていただけますでしょうか」
初老の女官が、一切の感情を排した声で宣告する。マリーが小さく頷くと、すぐさま三人の侍女が群がり、両耳にこぶし大のダイヤモンドが揺れるイヤリングを装着し、首筋には真珠の首飾りを重々しく巻きつけていった。
朝の身支度の儀式。 それが、ヴェルサイユにおけるマリーの一日の始まりだった。
室内には、彼女の着替えを「観賞」するために集まった数十人もの宮廷貴族たちがひしめき合っている。彼らは扇子で口元を隠しながら、ひそひそと囁き合い、マリーの皮膚の白さ、立ち居振る舞い、果ては着替えの最中に見せるわずかな表情の揺らぎまでを、執拗な視線で観察していた。
(……息が、できない)
昨夜、あの暗がりの中でルイと交わした、不器用だが確かな温もりを宿した会話が、遠い幻であったかのように思えた。あそこにいたのは、一人の傷つきやすい少年と、寄り添おうとした少女だった。だが、日の光の下に引きずり出された瞬間、マリーは再び「フランス王太子妃」という高価な装飾品へと戻されていた。
耐えかねたマリーは、胸元に最後の仕上げとして付けられようとした、絢爛な宝石の襟飾りを手で制した。
「……もう、結構です」
室内の空気が凍りついた。侍女の手がピタリと止まり、貴族たちのひそひそ話が一瞬で途絶える。
「……何か不都合でもございましょうか、殿下」
女官が不審そうに眉をひそめる。マリーは呼吸を整え、胸の奥で渦巻く感情を必死に抑え込みながら口を開いた。
「これほど重々しい装飾は必要ありません。……私は、贅沢そのものを拒んでいるわけではないのです。ですが、パンを買うことすら叶わず、痩せ細った子供たちもいると聞きました。……王家が民の苦しみに心を寄せていることを、形として示すべきだと思ったのです。神から王家に与えられた使命として、私たちがその痛みを無視し、ただ富を貪っていると思われるのが怖いのです。……ドレスの装飾を、少し削ってください」
マリーの切実な訴えだった。金額の問題ではない。王家を壊したいのではなく、ただ「神と民に対して正しく、気高い王家でありたい」と願う、一人の純粋な少女としての祈り――真摯な善意から出た言葉だった。
しかし、返ってきたのは賞賛でも納得でもなかった。 部屋を支配したのは、あまりにも無機質で、冷ややかな困惑だった。
「殿下」
女官は、まるで理解不能な戯れ言を聞いたかのように首を横に振った。
「この衣装に施された刺繍や宝石は、ただの飾りではございません。我がフランス王家の富と権威、そして諸外国に対する威信を示すための『神聖なる儀礼』でございます。それらを退けることこそ、王家の格を貶め、秩序を揺るがす愚行にございます」
「ですが、民に心を残さぬ王家が、どうして正しくあられましょう――」
「神から与えられた使命、とおっしゃいましたか?」
周囲の貴族たちから、くすくすと抑えつけるような失笑が漏れた。扇子の影で交わされる視線には、明らかな蔑みが混ざっている。
『まあ、オーストリアの田舎から来た小娘は、何一つご存じないのね』 『王家の格というものを理解していらっしゃらない』 『民の目を気にして身を縮めるだなんて、王太子妃としての自覚がお欠けになっているのでは』
刺すような異物感が、マリーの皮膚を刻んでいく。正しい王家であることを願っているはずだった。誇り高き王族として民を慈しむことが、なぜこれほどまでに嘲笑されなければならないのか。マリーは拳を強く握りしめ、唇を噛みしめるしかなかった。




