第5話 イアソンとメディア(2)
「あ……あの絵は何ですか!?」
侍女たちの動きがピタリと止まった。
マリーは、シャルルの指示通りに壁のタペストリーを震える手で指差した。
「王太子妃となる私を、『イアソンとメディア』のタペストリーで迎えるなど……! これは、私と我が母国オーストリアへの『絶縁状』ということですね!?」
静寂が、パヴィヨンの部屋を支配した。侍女たちの顔から一瞬で血の気が引いていく。ただの扱いやすい小娘だと思っていたオーストリアの王女が、タペストリーのギリシャ神話の意味を正確に見抜き、政治的な意図を糾弾してきたのだ。
マリーの「絶縁状」という言葉を聞いた侍女の一人が、あわてて隣の部屋へ走った。そして大広間の重厚な扉が開いて、顔を蒼白にしたデュナン伯爵が駆け込んで来た。
「も、申し訳ございません殿下!これは単なる手違いでございます!すぐに撤去させます。どうかお許しを」
デュナン伯爵は膝をつき、恭しく頭を下げた。その瞳には焦りが色濃く浮かんでいる。
(ねぇ、シャルル。本当にただの手違いなのではないかしら?)
『お前、信じられないくらい甘ちゃんだな。連中の意図なんてこの際どうでもいいんだよ。問題は向こうが弁解できないことだ。戦争は事実で始まるんじゃねぇ。口実で始まるんだよ。いいからオレの言うとおりに言え!』
シャルルの粗野な声が脳内で響く。
「撤去?それだけですか?私はこのような、最初から望まれない婚姻など受け入れません! 今すぐオーストリアへ引き返します! そして母上にご報告し、『それなり』の対応を採っていただきます!」
「なっ……!?」
デュナン伯爵の額から、滝のような汗が噴き出した。国交断絶。最悪の場合、オーストリアとの開戦。14歳の少女の口から出たとは思えない、あまりにも的確で、フランス王国の喉元を完璧に捉えた脅迫だった。
もし本当に王女がオーストリアへ逃げ帰れば、担当責任者であるデュナン伯爵の首が飛ぶだけでは済まない。王命によって爵位も領地も取り上げられ、一族が路頭に迷うほどの大不祥事になる。
「お、お許しを!手配した者に厳しい罰を与えますゆえ!」
「厳しい罰? 両国の断交を防ぐほどの“厳しい罰”ですね?わかりました。では、すぐにその罰を下した“証”を持ってきてください。そうすれば、この件は不問にいたしましょう」
その言葉を聞いたデュナン伯爵は、青ざめた顔で大広間を飛び出していった。
静まり返る室内。数分後、隣の控えの間から男の叫び声が響き渡った。
「やめろーーー!ひっ!私は言われたとおりに!デュナン伯爵様が用意しろとお命じになったでは……」
「うるさい!やれっ!」
「――ガアッ、ギ、アァッ……!!」
一瞬だけ鈍い打撃音が聞こえてきた。そして、隣の部屋が急に静かになる。不自然なほどの静寂が支配する中、マリーの側に控える侍女達は、顔面を蒼白にして体を小刻みに震わせていた。
(な、何が……?)
マリー・アントワネットもまた、胸の奥が凍り付くような恐怖に息を呑んだ。間もなくして、大広間の扉がゆっくりと開いた。戻ってきたデュナン伯爵は落ち着きを取り戻し、何事も無かったかのように息を整えてマリー・アントワネットに一礼する。その手には銀の盆が捧げ持たれていた。
盆の上に載せられていたのは――つい数十秒前まで生きていたであろう、40歳ほどの男の、滴る血に塗れた“生首”だった。見開かれた死体の目と、生温かい血の匂いが大広間に充満する。
「ご要望通り……不届き者に罰を下した“証”にございます……」
「あ……あぁ……っ」
目が合ってしまった。盆に載せられている男の目が、その視線が自分を睨んだような気がした。それは、“処罰”を要求したマリーを恨んでいる――そう思えてしまった。
生々しい“死”を目の前に突きつけられたマリーの視界は暗転し、彼女の意識は深い闇へと落ちていった。
糸が切れた人形のように、崩れ落ちそうになるマリー・アントワネットの身体。 ――だが、その身体は膝をつかなかった。
ガクリと頭を垂れた彼女の体が、不自然なほど滑らかな動きで持ち上がる。背筋がピンと伸び、閉じられていた瞳が開かれた。だが、その瞳に宿っていたのは14歳の少女の怯えではなかった。幾千もの戦場を渡り歩いた男――死神のようなシャルルの眼光だった。彼女は、銀の盆の上の生首を一瞥し、フッと口角を上げて嘲笑した。
「……デュナン伯爵。あなたの『誠意』、確かに受け取りましたわ」
マリー・アントワネットの可憐な容姿からは想像もつかない、低く冷たい声。彼女はドレスの裾をかすかに持ち上げ、一歩、デュナン伯爵へと歩み寄った。
「ですが……私をただの“小娘”だと思わないことです。……あなた自身のためにもね」
マリーの視線が、デュナン伯爵の瞳を正面から射抜く。その瞬間、デュナン伯爵は全身の毛穴が開き、心臓が狂ったように脈打つのを感じた。目の前にいるのは、華奢な14歳の少女に過ぎない。しかし、その背後に見えたのは――地獄の底から這い上がってきた“怪物”の影だった。
「は……はひぃっ……!」
デュナン伯爵は本能だけで理解した。この少女を敵にしてはならないと。




