第3話 裸の王女
貴賓室を包んでいたのは、洗練された静寂と、最高級のサンダルウッドの香りだった。
「お初にお目にかかります、マリー・アントワネット殿下。フランスへ、ようこそお越しくださいました」
深く優雅な一礼とともに、フランスのデュナン伯爵がマリーを出迎えた。40歳前後のすらっとした紳士は、わずかに頭を下げたまま丁重に挨拶をする。そして柔和な微笑みとともに、マリーを部屋の中央へ案内した。
丁寧な仕草、優しそうな微笑み、それなのに。
マリーの背筋には、冷たい氷を押し当てられたかのような悪寒が走っていた。
伯爵の目が笑っていない、というわけではない。態度が不誠実だというわけでもない。ただ、彼の柔和な笑みの向こうから、得体の知れない恐怖がじわじわとマリーの心を侵食する。
「これより、新たな王太子妃殿下としての装いを整えさせていただきます。どうぞ、ご安心なさってください」
声は低く、どこまでも柔らかい。伯爵はもう一度優美に頭を下げると、慇懃に貴賓室を辞していった。
「髪飾りをお外しいたします」
無感情なフランス侍女の手が、マリー・アントワネットの金の髪に触れた。ウィーンを発つ朝、母マリア・テレジアが愛おしそうになでてくれた髪である。ピンが抜かれ、美しく結い上げられていた金髪が肩へとさらりと落ちた。
この部屋でマリア・アントニアは、オーストリアの皇女からフランス王太子妃マリー・アントワネットへと生まれ変わる。その儀式において、オーストリアから持ってきた物は全て剥ぎ取られてしまうのだ。愛犬のモプスも、服も下着も、母からもらったイヤリングでさえも。そしてここまで付き従ってきた侍女達もオーストリアへ帰らされる。
マリーのその白く華奢な“身体”一つだけがフランスへ引き渡されることになっていた。
「ペティコートを。コルセットも解きなさい」
侍女達は指示に従っててきぱきとフックやボタンを外していく。
一つ、また一つと、彼女を保護していた「オーストリア」が剥ぎ取られる。コルセットの締め付けから解放された胸郭が大きく上下したが、そこに安らぎはなかった。
やがて、一番下に着ていた薄いリネンのシュミーズすらも、容赦なく肩から滑り落とされた。
「あっ……」
小さな悲鳴が、彼女の口から漏れた。部屋には暖炉は無く、五月のまだ冷たい空気で満たされている。肌をなでる冷気と、数人のフランス人侍女たちの不躾な視線。マリー・アントワネットは生まれて初めて、本当の意味で“丸裸”にされた。
14歳の少女の体は、まだ幼さを残していた。華奢な肩、薄い胸、細い腰。彼女は恥ずかしさと恐怖のあまり、自分の腕でささやかな胸を隠し、体を小さく丸めてガタガタと震えた。床に落ちた自分の服を踏まないように爪先立ちになりながら、屈辱に耐える。
(お母様……助けて……怖いよ……)
目頭が熱くなり、涙が溢れそうになる。しかし、ここで泣けば「オーストリアの王女は意気地がない」とフランス貴族たちに嘲笑されるだろう。彼女は必死に歯を食いしばり、床の一点を見つめた。
侍女たちは、そんな彼女の屈辱など意にも介さず、フランス側が用意した新しい下着--豪奢な刺繍が施された絹のシュミーズを手にして歩み寄ってきた。
一糸まとわぬ姿で立ち尽くすマリー。息を飲んだ一瞬の静寂。
まさに、その時だった。
『……なんだ?こりゃ?』
脳の奥底、記憶の最も深い場所から、野太く、低く、そして粗野な“男の声”が響き渡った。
「っひぁぁぁぁっ!?」
マリー・アントワネットは、まるで電流が走ったかのように跳び上がった。
「殿下!?」
着替えさせようとしていた侍女たちが驚いて手を引っ込めた。マリー・アントワネットは自分の頭を両手で抱え込んで周囲を見回す。
「な、男の人の声が聞こえます! 頭の中で! どういうこと!?誰か居るのですか!?」
絶叫に等しい彼女の叫び声が、部屋に響き渡った。侍女たちは一瞬固まったが、すぐに呆れたような、あるいは「頭の可笑しいお姫様」を見るような冷ややかな目つきに変わった。
侍女長が溜息をつき、冷たく言い放つ。
「……王太子妃殿下。お戯れも大概になさいませ。長旅のご疲労でお心が混乱されているのでしょう。お召し替えが滞りますので、お静かに願います」
誰も彼女の異変を本気で取り合わない。それどころか、異国から来た“未熟で扱いづらい小娘”という評価が、彼女たちの心の中で確定していくようだった。侍女たちは再び無感情な手つきで、彼女の体にフランス製の下着をかぶせようとする。
『すまない、お嬢さん。大声を出されると、脳が痛い。ここは?あんたは誰だ?』
まただ。頭の中で、はっきりと声が聞こえる。男の人の声。しかも、宮廷で使うような優雅なドイツ語でもフランス語でも無い。荒々しく、どこか異質で野蛮な響きを持った言葉。
(だ、誰なの!? 悪魔!? 私、取り憑かれたの!?)
マリー・アントワネットは声を出さず、必死に心の中で叫んだ。すると、その“問いかけ”に対して、男の声が即座に返答してきた。
『オレは……シャルル……ここはどこなんだ?確か……最後の作戦で……』
(シャルル?フランスの悪魔?何を言っているの!? 出ていって! 私の頭から今すぐ出ていって!!)
『出て行ってって……?お嬢さん、さっきから何を言って……待て。オレの声があんたの“頭の中”で聞こえてるって言うのか?』
男の--シャルルの声に困惑が混じる。
『お嬢さん、ちょっと教えてくれないか。このメイド達はなんだ?変な趣味の店か?というか、この体……オレの体じゃ無い……脳移植……なのか?作戦で重傷を負って……?』
(変な趣味の店?何を言っているの?このメイド達はフランス側のメイドよ。私がルイ・オーギュスト様に嫁ぐ為の準備をしてくれているのよ)
『ルイ・オーギュスト?…………あんた、まさか……。おい、お前の名前を言ってみろ』
(お、お前って何よ!失礼な男だわ!)
『あ、いや、ちょっと反射的にな……。君の名前を教えてくれないか?』
マリーは失礼な物言いのレベルが急に上がった男の声に困惑しながらも、オーストリア皇女として、未来のフランス王妃として堂々と答えてみせた。
(私の名前は、マリー・アントワネットよっ!)
その言葉に、頭の中の男が息を呑んだような気がした。
『マリー・アントワネット?』
男の声は沈黙し、しばらく思索にふけっているような感じがマリーにも伝わってくる。
『はっ? 冗談だろ……500年以上前じゃねぇか。それに、オレは超時空振動弾で消滅したはず……』
どうやら、マリーに伝えようとしなければ心の声は伝わらないらしい。シャルルは必死にマリーの「視覚」に意識を集中させ、共有されている視界を凝視した。時代がかった木造の室内。古めかしい絹の下着。冷ややかな目で見下ろしてくるクラシカルな侍女たち。そして鏡に映る、幼く華奢な少女の姿。
『……マジかよ。時空の裂け目に飲まれて……昔の歴史の、よりによって世界最悪の悪役令嬢の頭の中に潜り込んじまったってのか……!?』
合理的な分析が導き出した結論。それはあまりにも非合理で、絶望的な現実だった。次の瞬間、先ほどまでの困惑とは一転した、澱のような嫌悪感が湧き上がってきた。
『……クソが。死に損なって過去に飛ばされた挙句、よりによってブルボン朝の王族の小娘だと……? けっ、反吐が出るぜ』
(な、何なのよ!反吐が出るって!無礼ではなくて!?)
呼び方まで急に変えられ、マリーはわけも分からず苛立ちを募らせる。だが、シャルルは彼女の抗議など知ったことではないとばかりに、冷ややかな視線(思考)を鏡に映るマリーへ向けた。
『……しかし、お前。胸……全然無いな。実は男なのか?』
(へっ?)
あまりに無遠慮な本音が、シャルルの口(思考)からうっかり滑り出た。姿を見られていると気づいたマリーの顔が、一瞬で耳の先まで真っ赤に染まる。目の前の大きな鏡には、一糸まとわぬ自分の姿が映し出されていた。
(だっ、誰が男よ! 失礼ね!! これから大きくなるのよ!! っていうか、どこ見てるのよこの悪魔ーーーっ!!)
『あ、いや、悪気は……! って、おい、暴れるな! 脳が揺れる! 脳が揺れるから!!』




