第2話 パヴィヨン・ド・ルミーズ
ライン川の水面は、いつになく穏やかに春の陽光を反射していた。
アルプスを源とし、幾つもの国を貫いて北海へと注ぐその大河は、幾世紀にもわたり王たちの野心と兵士たちの血を運び続けてきた。川底に沈んだ沈黙は、かつてここで命を散らした名もなき兵士たちの呻きであり、流された血の重みそのものであった。
その雄大な流れの中央に、ぽつんと小さな中州が浮かんでいる。
人が住むには狭く、畑を作るにもあまりに痩せた土地。普段ならば鳥たちが羽を休めるだけの小さな陸地に過ぎない。しかし今日だけは、ここがヨーロッパでもっとも重要な場所であり、後の世界を左右する出発点でもあった。
一七七〇年五月七日。
中州には、この日のためだけに建てられた木造の館――パヴィヨン・ド・ルミーズがひっそりと佇んでいた。
館はあらゆる細部にいたるまで左右対称に造られている。東側はハプスブルク家。西側はブルボン家。そしてその中央には、どちらの王も支配できない「無主の部屋」が配されていた。
今日、この部屋で一人の花嫁が祖国を失う。
それは、華やかな祝福に包まれた結婚式などではない。数百年にわたり血で血を洗う宿怨を続けてきた二大王朝が、束の間の平和を結ぶための証として、一人の皇女がフランスの王家へと引き渡される『人質による交歓』。
オーストリア皇女マリー・アントワネット(マリア・アントニア)
十五年に満たないその人生で、彼女が自ら選んだものは一つもなかった。着る服も、学ぶ言葉も、そして誰を愛し誰に添い遂げるかさえも、すべてはハプスブルク家の繁栄という巨大な天秤の上で決められてきた。
(……お母様)
マリー・アントワネットは、小さな唇を強く噛んだ。瞼の裏に、厳格で偉大な母マリア・テレジアの顔が浮かぶ。幼い頃に一緒に駆け回った兄や姉たちの笑顔が浮かぶ。陽光に包まれたシェーンブルン宮殿の庭園。夕刻のウィーンに響き渡る聖シュテファン大聖堂の鐘の音。
昨日まで当たり前だった景色のすべてが、もう二度と戻らないものになろうとしていた。二度と触れることのできない輝かしい過去として、背後に遠ざかっていく。
(怖い……)
胸が押しつぶされそうになる感情の波。けれど、その言葉だけは、心の中でさえ決して口にしてはならないと自分に言い聞かせていた。
彼女はハプスブルク家の皇女なのだから。どれほど心細くとも、母の教え通り、誇り高く微笑んでいなければならないのだから。
「殿下」
オーストリア側の女官が、マリーに声を掛ける。
「お時間でございます」 その声はいつものように優しく、暖かかった。だが、どれほど優しくとも、それは後戻りを一切許さない、祖国との別れを告げる言葉だった。
マリー・アントワネットは震える息をそっと吐き出し、小さく頷いた。母国オーストリアの職人が手掛けた重いベルベットドレスの裾をわずかに持ち上げ、ゆっくりと一歩、前へ出る。足音が、木造の廊下に低く響いた。そのたった一歩で、愛する祖国が、果てしなく遠ざかったような気がした。




