第26話 サン=シュルピス伯爵
洗礼の儀を終えた数日後、ロシュフォール子爵夫人からマリーに“お会いしたい”と伝言が届いた。
「殿下に、折り入ってご相談したきことがございます」
人払いをした一室で対面した夫人は、頬をこわばらせながら思い詰めた様子で切り出した。
「殿下が我が子の命を救ってくださったこと、感謝の言葉もございません。……ですが恐れながら、もう一つだけお力添えをいただきたく……私の兄、サン=シュルピス伯爵のことでございます」
夫人の声が微かに震えた。
「兄は先日、サン=ドマングの植民地から帰国いたしました。……ですが、船旅の最中から体調を崩し、今も床から起き上がれずにおります。歯茎から血が滲み、日を追うごとに衰弱が進み……船乗りたちの間では、長い航海の後によく罹る忌まわしい病だと聞き及んでおります」
マリーの脳裏で、シャルルの気配が動いた。
『……歯茎からの出血、長い航海の後の衰弱、か』
(モン・コマンダン。何かお心当たりが?)
『十中八九、壊血病だ。新鮮な野菜や果物を長い間、口にできねぇと起こる。塩漬け肉と乾いたパンだけの航海が何ヶ月も続きゃ誰だってなる』
(治す方法はございますの?)
『ある。……呆れるほど単純な方法がな』
◇
翌日、マリーはごく内密にパリのサン=シュルピス伯爵邸を訪れた。伯爵夫人の案内で寝室に通されたマリーの目に映ったのは、痩せこけた頬、土気色の顔色。乾いた血の跡がこびりついた口元からは、腫れ上がった歯茎が覗いている男の姿だった。剥き出しの二の腕には、まるで殴られたかのような紫色の斑が点々と浮かんでいた。伯爵が王太子妃の方に頭を向けようとするだけで、関節の痛みに顔を歪めた。
「王太子妃殿下。この度は父の見舞いに来て頂き、誠に光栄にございます」
赤毛でそばかすのある少女が立ち上がり、深々とマリーに頭を下げる。サン=シュルピス伯爵の長女、エミリエだ。年齢は16歳で、母親と交代で看病をしているらしい。
「殿下……このようなお見苦しい姿を……」
エミリエに続いてサン=シュルピス伯爵も体を起こし挨拶をする。
「どうかそのままで結構ですわ、伯爵」
マリーはベッドの傍らに歩み寄り、伯爵の様子をつぶさに見つめた。歯茎からの出血、関節の腫れ、皮膚の斑点。脳裏でシャルルの声が確信を強める。
『間違いねぇ。壊血病だ』
「伯爵。失礼ながらお伺いいたします。船でのお食事は、干し肉と堅焼きパンばかりで、新鮮な果物などは口にできませんでしたか?」
「は……? ええ、まったく……」
「伯爵。今日から、レモンやオレンジの搾り汁を、毎日欠かさず召し上がりなさいませ」
「柑橘の……搾り汁、ですか……?」
伯爵は力ない声で問い返した。医師でさえ匙を投げた病が、そんなことで治るとは信じ難い様子だった。傍らの伯爵夫人も遠慮がちに問う。
「殿下……それだけで、本当に……?」
マリーは力強く頷いて、はっきりと答えた。
「異国の古い医書に基づく、確かな治療法ですの。どうか騙されたと思ってお試しになってくださいませ」
王太子妃自らが足を運び、これほどの確信を持って告げるのだ。無下にはできない。伯爵夫人とエミリエは深く頭を垂れた。
◇
その日から、伯爵は毎日柑橘の汁を口にした。二日目、あれほど止まらなかった歯茎からの出血が、静かに引いていった。一週間が過ぎる頃には、青白かった頬にほんのりと赤みが差し、自分で麦粥を口に運べるまでになっていた。そして二週間後――伯爵は、自らの足で寝室の窓辺まで歩き、久方ぶりの陽光に目を細めていた。
「……信じられん。たかが果実で、これほどの病が治るとは……」
「お父様。王太子妃様は神が遣わされた聖女様ですわ」
鏡に映る己の姿に、伯爵は呆然と呟いた。傍らでは夫人と娘が喜びに涙を流している。伯爵はすぐに妹夫婦のもとを訪れ、深々と頭を下げた。
「……マリー殿下は、まさに神が遣わされたお方だ。私の命は、殿下に救われたも同然だ」
ロシュフォール子爵もまた、我が子に続いて義兄の命までも救われた事実に、深い感謝を抱いていた。
「私はこれより先、生涯を懸けて王太子妃殿下にお仕えする所存です」
「私もだ。サン=シュルピス家もまた、殿下の忠実な味方となりましょう」
◇
その夜、報告を受けたシャルルが脳裏で小さく笑った。
『……上出来だ。子爵家に伯爵家。二つの家が一度に転がり込んできたな』
(モン・コマンダン。……こんな風に、人の弱みにつけ込むような真似、心が痛んだりしませんの?)
『弱みにつけ込んでるわけじゃねぇ。本当に困ってる奴を助けてやった結果、味方になった。それの何が悪い』
「……そうですわね」
マリーは自室の窓辺で、月を見上げながら思わず声を漏らして微笑んだ。
『おい、窓を開けて声に出すなと言ったろうが。誰が聞いているか解らんぞ』
(あ、ふふ……ア・ボゾルド! モン・コマンダン)
打算と善意――その両方が手を取り合ってこそ、本当に人を救う大きな力になる。マリーはそれを、身をもって理解し始めていた。
ロシュフォール子爵家、そしてサン=シュルピス伯爵家。 ヴェルサイユの宮廷において、王太子妃マリー・アントワネットを陰から支える「最初の確かな陣営」が、ここに誕生したのだった。




