第27話 産業革命
「えっ……? これを、マリーが書いたの?」
離宮の一室、テーブルに広げられた紙の束を前に、ルイは思わず声を上げた。
そこに描かれていたのは、これまで彼が目にしたことのない、奇妙で精密な線描だった。歯車の噛み合った装置、回転する円筒、複雑に組まれた棒と滑車。素人目にも、これが並の職人の思いつきではないことだけは分かった。
「はい。……頭の中の声に従って、おおざっぱに描いただけですけれど」
夜ごとの鍛錬の後、シャルルが淡々と語る知識を、マリーは震える手で紙に書き写し続けていた。正直なところ、その大半は、彼女自身にもよく分かっていなかった。「旋盤」だの「フライス盤」だの「高圧式蒸気機関」だのといった言葉の意味も、なぜこの歯車がこう動けば、あの装置が回るのかという理屈も、マリーの頭では到底追いつかない代物だった。
ただ、シャルルの声には、いつもとは違う確信めいた熱があった。
『これがあれば、この国の産業はまるごと変わる。……信じられねぇなら、まず一つでいい、作ってみろ』
その言葉に従ってマリーはひたすらペンを走らせた。自分には理屈は分からずとも、賢いルイなら理解出来るという確信だけはあった。
ルイは、テーブルの上の図面を一枚一枚、食い入るように見つめていった。
「これは……歯車で金属を回転させて削る装置か? こっちは……蒸気の力で、何か大きなものを打つ道具のようだ」
ルイの目に、みるみる輝きが宿っていく。幼い頃から鍵の構造をいじるのが好きだったという彼にとって、この精密な機械図は、まさに心躍る宝の地図のようなものだった。
「すごい……! こんな精巧な発想、僕には到底思いつかない」
夢中で図面を追うルイの様子に、マリーは密かに安堵した。工作機械への反応は、思った以上に良い。
だが、彼女が本命として持ってきた図面――足踏み式の脱穀機と、回転式の唐箕の設計図を差し出した時、ルイの表情は一転して困惑のものに変わった。
「……これは、何をする道具なんだい?」
「脱穀機は、麦の穂から実を落とす作業を素早く行うための道具です。そしてこちらの唐箕は、実と殻や塵を、風の力で選り分けるためのもの、と聞いています」
マリーが説明すると、ルイは苦笑いを浮かべて首を傾げた。
「農作業の道具、か……。正直に言うと、僕にはこれが本当に役立つものなのか、判断がつかないんだ」
ルイは、少し恥じ入るように視線を落とした。
「僕は、農作業をしたことも、この目でちゃんと見たこともないんだ。畑がどんな風に耕され、麦がどうやって刈り取られ、脱穀されているのか……宮殿の中で育った僕には、想像することしかできない」
それは、王太子としての生まれの必然だった。豪奢な宮殿の奥深くで、幼い頃から専門の教師に囲まれて育ったルイにとって、民の暮らしの実態は、地図の上の遠い異国も同然だったのだ。
マリーは、その正直な告白に、むしろ胸を打たれた。取り繕おうとせず、己の無知を認められることこそ、ルイの美点だと知っていたから。
「……ルイ様。私も同じですわ」
マリーは、微笑みをルイに向けた。
「私も、この図面がどのように動くのか、正直なところ半分も分かっておりません。……ですが」
マリーは、テーブルの上の図面に、そっと指を這わせた。
「頭の中の声は、これまで一度も、私を裏切ったことがないのです。赤ちゃんの命を救う知恵も、壊血病を治す知恵も……最初は誰もが半信半疑でした。ですが、結果はご存知の通りです」
ロシュフォール子爵家の赤子、サン=シュルピス伯爵の回復。ルイもまた、その奇跡のような出来事を、間近で見てきた一人だった。
「……確かに、そうだったね」
ルイは、静かに頷いた。理屈では説明できない。だが、これまでの積み重ねが、確かな信頼を築いていた。
「ルイ様。この時代の農業は、あまりにも非効率的すぎるのだそうです。人の手だけで麦を脱穀し、実と殻を選り分ける……それでは、いくら畑を広げても、収穫できる量には限界があります。ですが、この道具があれば」
マリーは、一段と声に力を込めた。
「一人の農夫が、これまでの何倍もの麦を扱えるようになります。それはつまり――より多くの民の口に、パンが行き渡るということです」
「より多くの民に……パンが」
ルイの瞳に、迷いが消え、代わりに強い光が宿り始めた。彼にとって、"民の飢え"という言葉は、もはや遠い抽象論ではなかった。マリーが夕餐の席で叱責された、あの痛みを伴う記憶と、密接に結びついている言葉だった。
「分かった。……信じるよ、マリー」
ルイは、深く頷いた。
「だけど、これほど精巧な道具を、いったい誰が作れるんだろう。宮廷の職人には、こんな機械を組み立てられる者はいないと思う」
その問いにこそ、マリーが本当に伝えたかった提案があった。
「だからこそ、ルイ様。……学びの場を強化したいのです」
「学びの場?」
「ええ。この図面のような技術を、実際に作れる者を育てなければ、絵に描いた餅で終わってしまいます。パリ大学にこのようなコースを設けることは出来ないでしょうか?」
ルイは、しばし黙り込んだ。そして、何かに思い至ったように顔を上げた。
「……パリ大学は神学や法学が中心だからどうかな……それなら、フランス科学アカデミーだ」
「アカデミー……」
「アカデミーには数学に天文学、化学に植物学のサロンがある。あの場所には、この国のあらゆる分野の学者たちが集っている。機械工学の分野だってある。ならば、一から学び舎を作るよりも、あのアカデミーを強化し、工学、殊に、この図面のような実用の技術を専門に学ぶ課程を新設する方が、遥かに早い」
ルイの声には、これまでにない強い意志が宿っていた。不器用で、自信なさげだった彼が、初めて自らの意志で、国家の未来に関わる提案を口にした瞬間だった。
「素晴らしいですわ!ルイ様!」
マリーは、心からの笑みを浮かべた。大きな瞳はキラキラと光っていて、嬉しさで頬を染めている。その現実離れしたような可愛らしさにルイは蒸気が噴き出すのではないかというくらい顔を真っ赤にした。
窓の外、ヴェルサイユの夜は静かに更けていく。だが、この小さな一室では、確かに、新しい未来への種が蒔かれようとしていた。




