第24話 小さな命の灯火(1)
宮廷の茶会からの帰り道。馬車に揺られながら、マリーがぼんやりと窓の外を眺めていると、脳裏でシャルルが不意に口を開いた。
『……なぁ、さっきの茶会で聞いた話だが』
(お茶会の?)
『あの茶会で、ロシュフォール子爵夫人が近く出産するって言ってたな。先に生まれた幼子たちは皆早くに亡くなっていて、呪われているんじゃないかって、他のブタ貴族どもが笑っていた件だ』
マリーの胸に、茶会での光景が蘇る。扇の陰で交わされていた、嘲りと憐れみの入り混じった忍び笑い。哀れな夫人の不幸を、まるで座興の種であるかのように囃し立てる声。マリー自身、話に入ること無くただ黙って聞き流していたが、内心では強い不快感を覚えていた。
(……あの方のことですね。皆様、あんまりな仰りようでしたけれど)
『そうだ。……お前が聞き逃さずにいてくれて助かった』
シャルルの声には、いつになく実務的な響きがあった。
『俺は、お前の目と耳を通してしかこの世界の情報を得られねぇ。お前があの場に居合わせて、ちゃんと聞き取ってくれたから、使い道が見えた』
(使い道……?)
『ロシュフォール子爵に恩を売る』
シャルルの言葉に、マリーは思わず窓の外から視線を戻した。
(恩を、売る……?)
『子爵家自体は大した力を持っちゃいねぇ。だが、夫人の実家は宮廷内でそこそこ顔の利くサン=シュルピス伯爵家だ。……もし、その家の子がお前のおかげで無事に育ったとなりゃ、どうなると思う?』
(……恩義を、感じてくださる、ということでしょうか)
『そうだ。恩義ってのは、下手な弁舌より強い。……忠誠を金で買うことはできても、命を救われた恩はそう簡単には裏切れねぇ。地道だが、それが“味方”を作る一番堅実なやり方だ』
マリーは、複雑な思いを抱きながらも胸の中で頷いた。人の弱みや悲しみを政治的な計算として利用する――その割り切りに、微かな抵抗を覚えないわけではなかった。だが同時に、そこに込められた合理性を否定することもできなかった。
(……でも)
マリーはそっと胸に手を当てた。
(打算からだとしても……救われる命があるのなら。私は、それでいい)
◇
その夜、鍛錬の終わった後、シャルルはマリーに出産に関わる知識をみっちりとレクチャーしていた。
『……この時代の乳幼児死亡率は、異常なほど高い。原因の大半は栄養失調じゃねぇ。不衛生だ。目に見えねぇ小さな生き物――細菌ってやつが、傷口や産道から入り込んで産婦や赤子の命を奪う。この時代の医者や助産師は、それを知らねぇまま、汚れた手や道具で平然と赤子を取り上げている』
(モン・コマンダンは医術の心得もあるのですか?)
『戦場での応急手当くらいはな。だが、出産に関しては頭の中のデバイスが教えてくれる』
(うらやましいですわ。私もそのドヴィスを使えないのかしら?)
マリーは、その一言一句を紙に書き写した。石鹸での念入りな手洗い、道具の煮沸消毒や火での清め、そして――生まれたばかりの赤子に、決して蜂蜜を与えてはならないこと。もうすぐ出産を迎えるロシュフォール子爵夫人に、確実に伝えなければならないのだ。
◇
冬の冷え込みが厳しいある日、マリーは供の者を最小限に絞り、パリ近郊のロシュフォール子爵邸を訪れていた。
「王太子妃殿下自らが妻の見舞いに来て頂けるとは、光栄の至りでございます」
ロシュフォール子爵が深々と頭を下げて出迎える。生まれた子供たちが悉く夭逝していて、妻自身も何かの呪いではないかと心を痛めているということだった。
玄関の間で、マリーは身に纏っていた分厚いウールの外套を脱ぎ、控えていた従者へと手渡した。
外套の下から現れたのは、これまで宮廷で目にしてきたどんな衣装とも異なる、簡素で清潔な装いだった。糊の効いた白い生地が、清廉な光沢を放ちながら、彼女の細い身体をすっぽりと包んでいる。余計な装飾は一切なく、ただ、動きやすさと清潔さだけを追求したかのような、機能的な仕立てだった。
その白一色の装いの中で、マリーの金の髪が、なお一層鮮やかに映えていた。透けるような白い肌には、白粉も紅も必要としない、静謐な美しさが宿っている。まるで、この寒々とした冬の館に、神話の天使が舞い降りたかのような光景だった。
子爵は、その見慣れぬ装いに、一瞬、戸惑いの色を浮かべた。だが、すぐに居住まいを正し、深々と頭を下げた。
出産を迎えた若い妻は、寝台の上で苦しげに息を荒げていた。傍らには、教会から遣わされた40歳くらいの修道女が、慣れた手つきで湯や布を用意している。マリーは部屋の隅にそっと控えながら、夫人の顔に浮かぶ、陣痛の痛みとは違う深い陰りに気づいていた。
(……怖がっていらっしゃる)
この夫人はこれまでに三人の子を産んでいた。だが、そのうち一人は二歳になる前に痩せ細るように衰弱して息を引き取り、二人は生後二十日くらいで儚くなっている。
「……また、この子も……」
夫人が譫言のように呟く。修道女が慰めの言葉をかけるが、その声にもどこか諦観のような色が滲んでいた。この時代、生まれた子供が幼くして命を落とすことは、悲しいことではあっても日常茶飯事だったのだ。
「シスター。……少し、よろしいでしょうか」
修道女は驚いた様子で振り返ったが、その相手が王太子妃だと子爵から説明されて、慌てて頭を垂れた。マリーは努めて穏やかに告げた。
「出産の折には、いくつか心得るべき事があると聞き及んでおります。……まず、赤子を取り上げる前には、必ず石鹸で丹念に手をお洗いになってください。それから、ヘソの緒を切る鋏は、火で炙って清めていただくように」
「火で……清めるのですか?」
半信半疑ながらも、修道女は深く頷いた。王太子妃自らの言葉であり、その語り口には疑いを差し挟ませぬ確かな響きがあったからだ。 修道女は言われた通り石鹸で丹念に手を洗い、鋏を火で清め、改めて夫人の傍らに座した。




