第23話 お茶会にて
数週間の「仮面」の訓練を経た、ある晴れた午後。マリーは宮廷の貴婦人たちが催す庭園での茶会に招かれていた。
このところ、マリーには新たな習慣ができていた。街で困窮する平民たちに、定期的に信頼できる侍女を使いに出し、パンや薬を届けさせるようになっていたのだ。表立って喧伝することはなかったが、噂の絶えない狭い宮廷のこと、その行動はいつしか貴婦人たちの耳にも届いていた。
案の定、華やかな茶会の席で、扇の陰から皮肉めいた声が上がった。
「殿下は近頃、随分と……その、“下々の者たち”にご執心だとか」
くすくすと、忍び笑いが広がる。
「まあ、王太子妃ともあろうお方が、平民風情に貴重なお時間をお使いになるなんて。もっとお茶会や晩餐会にお力を入れられた方が、王太子殿下の為でもあるのではなくって?」
以前のマリーであれば、頬を紅潮させて下を向き、言葉に詰まっていたところだろう。だが今、彼女の顔には涼やかな微笑みだけが静かに浮かんでいた。夜ごとの鏡の前での訓練が、ここで初めて実地に試される瞬間だった。
(……ここだ)
胸の内で、マリーは静かに息を整えた。頭の奥には、幾晩もかけてシャルルに繰り返し叩き込まれたロジックがあった。
マリーは優雅な所作で紅茶のカップを置くと、穏やかな、けれど一切のブレがない声で応えた。
「あら、皆様はご存じないのかしら」
視線を集め、一呼吸置いてから続ける。
「聖書には、こう記されておりますでしょう。『わたしは飢えていたときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し……』。そして主は、こう仰せになりました。『あなたがたが、これらの最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしたのである』、と」
茶会の席に、凍りついたような沈黙が落ちた。マリーはその沈黙を味わうように、静かな笑みをたたえたまま言葉を重ねた。
「私は、敬虔なカトリックですの。主の教えに従うことを『はしたない』と仰るのでしたら――それは、教会の教えそのものを疑うことになりはしませんこと?」
扇の陰で交わされていた忍び笑いが、ぴたりと止んだ。
貴婦人たちの顔に浮かんだのは、隠しきれない動揺だった。カトリックの信仰を正面から盾に取られては、誰も反論などできるはずがない。この国において教会の教えを軽んじることは、国王や王家の権威そのものを否定するに等しいからだ。マリーの一言は、彼女たちが最も安全だと思っていた足場を、静かに、けれども確実に切り崩していた。
「……そ、それは失礼を申し上げました、殿下」
一人の貴婦人が引きつった笑みを浮かべ、そそくさと話題を変えた。他の者たちも居心地悪そうに視線を逸らし、茶会は何事もなかったかのように流れていった。
◇
その夜、自室に戻って人払いを済ませたマリーは、寝台に倒れ込むようにして、思わず声を上げた。
「――勝った! 勝ちましたわ、モン・コマンダン!」
弾んだ声だった。政治の重み、未来の惨劇という恐怖、夫にさえ明かせぬ秘密――そうしたものすべてを、この瞬間だけは忘れていた。生まれて初めて自分の言葉で敵を叩きのめしたという達成感が、胸いっぱいに広がっていた。
「あの人たち、あんなに驚いた顔をして……! ずっと言い返せずに悔しい思いばかりしてきましたのに……!」
頭の奥から、シャルルの呆れたような声が返ってきた。
『……声に出さなくても聞こえる。うるさいんだよ』
「あら、今日ぐらい声に出して喜んでもよくなくって?」
『……ふん』
シャルルは鼻を鳴らし、僅かに言い淀んでから続けた。
『まあ……悪くない出来だった。神なんて信じてないが、聖書の内容は十分使えるな』
「本当ですか!」
マリーは飛び跳ねるように身を起こした。頭の奥で、シャルルが照れ隠しのように小さく舌打ちする気配がした。
『調子に乗るな。まだ一勝しただけだ』
「ふふ、分かっておりますわ。……でも」
マリーは窓の外の綺麗な月を見上げながら、そっと呟いた。
「今夜だけは、喜んでもよろしいでしょう?」
その問いに、シャルルはしばし答えなかった。だがやがて返ってきたのは、これまでにない、どこか温かみを帯びた声だった。
『……好きにしろ』
十四歳の少女はその夜、久しぶりに憂いのない顔で深い眠りについた。
◇
その日を境に、マリーの日々は目に見えて変わっていった。
朝は知識を蓄え、昼は優雅に社交をこなし、夜は密かな鍛錬に打ち込む。剣を握ったこともない身にシャルルの“機甲武術”は依然として遠い道のりだったが、高さ2メートル近くあるベッドの天蓋につま先が届くようになっていた。また、型の一つ、二つと、確実に身体はその動きを覚え始めている。鏡の前での「仮面」の訓練も、日を追うごとに微動だにしなくなっていた。
茶会や夜会の場でも、以前のように俯いてやり過ごすことは二度となかった。時には切り返し、時にはやんわりと躱し、時には静かに相手を黙らせる。
一つ勝つたびに、マリーは弾んだ声で「モン・コマンダン、聞いてください!」とその日の出来事をシャルルに報告するのが、いつしか日課になっていた。
(……いちいち言わなくても分かってる)
そう言いながらも、シャルルは律儀にその一つひとつに耳を傾けていた。時には「悪くない」、時には「まだ甘い」――素っ気ない評価の中に確かな手応えが滲んでいることに、マリー自身も気づき始めていた。
ある晩、いつものように「ア・ボゾルド!」の号令とともに夜の鍛錬を終えたマリーは、ふと頭の奥に問いかけた。
(……モン・コマンダン。私、少しは強くなれていますか?)
『……さぁな』
シャルルの声はいつも通り素っ気なかった。だが、続く言葉には確かな実感が込められていた。
『だが、少なくとも――もう、あのときみたいにめそめそ泣いてばかりの小娘じゃねぇよ』
その一言に、マリーは胸の奥で小さく笑った。かつて涙にくれるばかりだった自分を思えば、それは何よりの誉め言葉だった。
(うふふ、ありがとうございます。モン・コマンダン)
窓の外、ヴェルサイユの夜空には変わらず星が瞬いていた。だが、その光を見上げるマリーの瞳には、以前にはなかった強さが確かに宿り始めていた。
現国王ルイ十五世が崩御して夫のルイ十六世が即位し、自分自身が王妃になるまで史実通りならあと三年。その猶予の中で、少女は少しずつ、確実に「静かな牙」を研ぎ始めていた。




