第22話 仮面は武器
「ア・ボゾルド!(了解しました!)」の返事にも、幾晩か経つ頃にはすっかり慣れてきた頃だった。ある夜、シャルルはマリーを大きな姿見(鏡)の前に立たせた。
『さぁ、次の課題だ。鏡をよく見ろ』
マリーは言われるがまま、燭台の柔らかい炎に照らされた自分の顔を見つめた。
『……分かるか? お前の顔は、絵本より分かりやすい』
(絵本……ですか?)
『そうだ。喜べば目が輝き、悲しめば眉が下がる。腹が立てば口元が歪み、怖ければ肩が縮こまる。お前の感情は、いちいち全部顔に書いてある。宮廷でその面をやってりゃ、手の内をすべて読まれて、いいように使われるだけだ』
マリーは、そっと自分の頬に手を当てた。 確かに、これまで何度も感情を抑えきれずに涙をこぼし、あるいは怒りに震えて声を荒げてきた。それが己の弱さだと、彼女自身、痛いほど分かっていた。
『今日から、お前にその仮面の作り方を叩き込む』
(仮面……)
『まずは単純なところからだ。……いいか、俺がこれから、お前が一番腹の立つことを言う。何を言われても、顔色ひとつ変えるな』
(そんなこと、できるでしょうか)
『返事は "ア・ボゾルド!" だっ!』
(……ア・ボゾルド)
マリーは背筋を正し、鏡の中の自分をまっすぐに見つめた。
『――お前は、母親に見捨てられて、この国に売り飛ばされたゴミだ』
(なっ!?そんな事はありません! お母様が……私のことをゴミだなんて……!)
その一言に、マリーの血が逆流した。顔を真っ赤にし、目尻に涙が浮かびかける。
『お前はバカか! これは訓練だ! 表情一つ変えるなと言っただろ!』
(あっ……!)
『もう一度だ!』
『――ハプスブルクの田舎娘が、フランス風を気取っても似合わねぇな』
今度は涙こそ出なかったものの、唇が僅かに引き結ばれた。
『唇だ。動いた』
(……分かって、います)
『"ア・ボゾルド!" だっ!』
(ア・ボゾルド!)
マリーは奥歯をグッと噛みしめ、もう一度、鏡の中の自分に向き直った。
こうして、夜ごとの過酷な訓練が繰り返された。 シャルルは時には辛辣な皮肉を、時には冷ややかな嘲りを、容赦なくマリーに浴びせた。そのたびに、マリーの表情のわずかな揺らぎを、シャルルは見逃さず指摘した。
『違う。今、鼻の付け根に皺が寄った』
(え……? そんな、僅かなところまで……)
『"ア・ボゾルド!" だっ! 宮廷の狐どもは、そういう僅かな綻びを見逃さねぇ。お前が今まで潰されてきたのは、まさにそこだ』
幾晩も、幾晩も。同じやり取りが叩き込まれた。 最初のうちは一言も持たずに表情を崩していたマリーだったが、次第に、感情の波を顔に出さずに耐えられる時間が延びていった。
そして――。
『――お前の母親はビッチだって噂だ。お前の父親も誰だか解ったもんじゃねぇ』
(……)
鏡の中のマリーは、微動だにしなかった。 眉も、唇も、頬も、鼻先も、何一つ揺らがない。ただ静かに、まっすぐに自分の鏡像を見つめ返している。
しばしの静寂の後、脳裏でシャルルが小さく唸った。
『……ほぉ』
(どう、でしょうか……モン・コマンダン)
マリーが恐る恐る心の中で尋ねた。鏡の中の顔は無表情を保っていたが、胸の奥では心臓が痛いほど早鐘を打っていた。
『……悪くない』
その一言に、張り詰めていたマリーの頬が、思わず緩みかけた。
『――おい、緩んでるぞ』
(あっ……!)
慌てて表情を引き締めるマリーに、シャルルの気配が、僅かに笑ったような気がした。
『まぁいい。……その調子で続けろ。仮面ってのは、着けっぱなしになるまで身体に叩き込むもんだ』
(ア・ボゾルド! モン・コマンダン!)
鏡の中の十四歳の少女は、まだぎこちなくはあるものの、確かに以前とは違う顔つきをしていた。 感情に振り回されるだけの無防備な少女ではない。己の心を、己の意志で御そうとする――その確かな第一歩を踏み出していた。
そして、シャルルから経済学や政治学など、18世紀で役に立つ知識の授業も同時に始まった。




