第21話 夜(?)の訓練開始
離宮の一室、鎧戸の隙間から月明かりが静かに差し込む深夜。人払いを済ませたマリーは、寝台の端に腰掛け、静かに目を閉じていた。
『――さて』
頭の奥から響いたシャルルの声は、いつもよりどこか張りがあり、楽しげでさえあった。
『今日この時をもって、お前の鍛錬を開始する』
(鍛錬……?)
『いいか、これから俺が言うことに、いちいち「え?」だの「どうして?」だの聞き返すんじゃねぇ。鍛錬中の返事は一つだけだ。"ア・ボゾルド!(了解しました!)" それ以外は要らねぇ』
(ア・ボゾルド, ですか? ……分かりました、けれど)
『けれど、じゃねぇ! 返事は "À vos orders(ア・ボゾルド:了解しました)!" だけだと言ったろうが!』
有無を言わさぬ厳しい怒声(のような気配)に、マリーは思わず背筋をピンと伸ばした。
(……ア、ヴォ、オルドル!)
『声が小さい! もう一度!』
(ア・ボゾルド!)
暗闇の中、聞く者とてない静寂の自室で、十四歳の少女がたった一人、誰もいない虚空に向かって、心の中で声を張り上げている。傍から見れば、なんとも奇妙で狂気じみた光景に違いない。
『よし。それから、俺のことは今後 "Mon commandant!(司令官殿)" と呼べ』
(Mon commandant、ですか。……何だか、軍隊のようですこと)
『軍隊のようも何も、軍隊の流儀そのものだ! さぁ、呼んでみろ!』
(も、モン、コマンダン!)
『声に覇気がねぇ! やり直し!』
マリーは、思わず頬をふくらませた。 これまでのシャルルは、皮肉屋で、ぶっきらぼうで、けれど常に理屈で物を語る「教師」だった。それが今、まるで子供が悪ふざけでもしているかのように、やたらと威勢のいい号令をかけてくる。 戸惑いながらも、どこかその滑稽さに、マリーは胸の奥で小さく笑いを堪えた。
(モン、コマンダン!)
『よろしい』
満足げな気配が、脳裏から誇らしげに伝わってくる。
『では、次だ。まず、お前自身の身を守れるようにする。……俺の故郷、火星軍で叩き込まれた体術。"Art martial de l'acier"――機甲武術だ。それを、これからお前に叩き込む』
(機甲武術……。まさか、私にそのような荒々しいことができるとは、到底思えませんが)
『"ア・ボゾルド!" だ! それ以外は口にするな!』
シャルルの声に、一切の反論を許さない勢いが戻ってきた。マリーは、押されるように答える。
(ア・ボゾルド……!)
『よし。……いいか、マリー』
シャルルの声が、僅かに――ほんの僅かにだが、低く真剣な響きを帯びた。
『この技を、一年でモノにしろ。会得した頃には、丸腰のまま百人の兵士を相手に立ち回れるようになる』
(ひゃ、百人……!?)
思わず心の中で絶叫してしまったマリーに、シャルルは間髪容れずに叱咤を飛ばした。
『返事は "ア・ボゾルド!" だと言ったろうが!』
(あっ……! ア・ボゾルド!)
その容赦ないやり取りに、マリーはとうとう堪えきれず、くすっと小さく声を立てて笑ってしまった。
政治の重責、未来の断頭台という恐怖、そして夫にさえ明かせぬ秘密――そうした重苦しい日々の中で、この滑稽でいて容赦のないやり取りは、束の間、彼女の張り詰めた肩の力を抜かせてくれた。
(……分かりました、モン・コマンダン。ア・ボゾルド!)
今度は自分から進んで、しっかりと胸を張り、心の中で声を高らかに響かせてみせた。 頭の奥で、シャルルが小さく鼻を鳴らす気配がした。それはどこか、まんざらでもなさそうな音だった。
『……上出来だ。じゃあまずは“股割”からだ。両足を180度開けるようにしろ。話はそれからだ』
(足を180度に?そんなことでよろしいのですか?)
マリーは床に両足を開きながらぺたんと座った。完全に足は180度開いていて、さらに上半身をそのまま前に倒してしまう。
『すごいな、そこまで体が柔らかいとは……』
(うふふ、モン・コマンダン。これくらいは淑女の嗜みですのよ)
『む、無駄口は叩くな。次は足技と跳躍力だ。ベッドの天蓋につま先が届くようにジャンプしてみろ!』
こうして、十四歳のフランス王太子妃による“夜の格闘訓練”が幕を開けた。




