第18話 デュバリー夫人……そして覚悟
謁見の間へ向かう回廊で、マリーはオーストリア大使メルシー伯に呼び止められた。
「殿下。少々、お耳を拝借してもよろしいでしょうか」
オーストリアきっての外交官の声は、いつになく硬かった。人払いをした後、メルシー伯はマリーをまっすぐに見据えて切り出した。
「率直に申し上げます。殿下がデュ・バリー夫人を無視し続けていらっしゃること、宮廷中の噂となっております」
「……あの女性に、頭を下げよと?」
マリーの声に、抑えきれない棘が滲んだ。
「頭を下げよとは申しません。ですが、殿下――これはもはや、殿下お一人の感情の問題ではないのです」
「感情の問題ではないと仰るのなら、伯、あなたは何もお分かりになっていません」
マリーは珍しく声を荒げた。堪えていたものが、堰を切って溢れ出す。
「私は知ってしまったのです。豪奢なドレス、宝石、終わることのない晩餐会……その裏で、パンひとつ買えず痩せ細っていく子供たちがいることを。この国の貴族たちは、その富をどこから得ているとお思いですか? 民から搾り取った税の上に、あの絢爛な暮らしがあるのです」
メルシー伯の眉が、僅かに動いた。マリーは続けた。
「デュ・バリー夫人は、その象徴です。何の功績もなく、ただ陛下の寵愛だけを頼りに富を浪費する……あの人を認めるということは、私自身が、この国の貴族の流儀に――民を顧みぬこの流儀に、膝を屈することに他なりません。私には、それができません」
マリーの脳裏に、厳格な母マリア・テレジアから叩き込まれた言葉が過ぎった。誇り高くあれ、決して身を汚してはならぬ、と。デュ・バリー夫人はルイ15世の愛人となり、正式な婚姻の証もなくただ王の寵愛だけを頼りに、この国随一の権勢を手にした女だった。功績もなく、ただ閨での寵愛一つで貴族すら跪かせ贅沢を極める――その存在そのものが、マリーがこれまで信じてきた王家の秩序と誇りへの侮辱のように思えた。そして特権階級のこのような振る舞いが民衆の怒りを買い、何百万人もの人を死なせる悲劇へと繋がることを知ってしまったのだ。何より、自分もまた一人の女として、いずれ「寵愛」という言葉一つで軽んじられる日が来るかもしれない――そんな漠とした恐れが、夫人への強い嫌悪の底に横たわっていた。
長い沈黙の後、メルシー伯は深く息を吐いた。その顔に浮かんでいたのは怒りではなく、どこか年若い者の未熟さを見るような、静かな呆れだった。
「殿下は、思い違いをなさっておいでです」
「思い違い、ですって?」
「王家や貴族が富み、栄えること。それこそが、この国の秩序そのものなのです」
伯は、諭すように言葉を継いだ。
「貴族が贅を尽くし、威厳を保つからこそ、諸外国はこの国を侮らず、民もまた王家と貴族の権威にひれ伏し、国はまとまりを保つ。貴族が力なき存在に成り下がれば、国そのものが瓦解いたします。殿下がお考えのような『貴族の質素』など、この国にとっては秩序を崩す毒でしかございません」
「では、民が飢えることは……」
「殿下」
メルシー伯はマリー・アントワネットの言葉を遮った。
「我が国の税収も、ほとんどは平民が納めております。フランスも、我が故国オーストリアも、国の本質は変わりませぬ」
マリーは声を失った。フランスだけが特別なのではない。幼い頃から愛し、誇りに思っていた故国オーストリアもまた、同じ犠牲の上に成り立っていたのだ。ただ自分が知らなかっただけ。逃げ場など、最初からどこにもなかった。
伯は懐から一通の書簡を取り出した。封蝋には、見覚えのある紋章。母、マリア・テレジアのものだった。
「女帝陛下からも、重ねてのお言葉です。殿下が意固地に夫人を黙殺なさることで、陛下のご機嫌を損ね、オーストリアとフランスの同盟そのものに影を落としかねない、と」
書簡を開く手が微かに震えた。そこに連ねられた母の筆致は、いつものように厳格で、氷のように冷たかった。感情ではなく、国益。母が娘に求めるのは、常にそれだけだった。
「……たった一言、でよいのです」
メルシー伯は、静かに言葉を続ける。
「新年拝賀の儀で、当たり障りのない言葉を、ほんの一言。それだけで、多くのものが救われます」
マリーは書簡を握りしめたまま、何も答えられなかった。
◇
1971年1月
新年拝賀の儀は、恙なく終わった。少なくとも、傍目にはそう見えたはずだった。
人混みの中、マリーは震える喉を叱咤し、練り上げていた一言を、夫人へと投げかけた。
「――今日は、ヴェルサイユに大勢の人がいますこと」
それだけだった。たったそれだけの、当たり障りのない言葉。
だが夫人は、扇の陰でにこやかに一礼しながら、誰にも聞こえぬ小さな声で、ただ一言だけマリーの耳元に落としていった。
「……陛下は、聞き分けの良い方がお好きですものね」
デュ・ヴァリー夫人は優雅に立ち去り、儀礼の列は、何事もなかったかのように流れていった。
女の体を使ってのし上がり、国王の力を自分の力のように使って社交界を専横するデュ・ヴァリー夫人。マリーにとって認めることの出来ない女。その女に屈服したマリーは、奥歯を強くかみしめて体を震わせていた。
『あいつも同じだ。泣き叫びながら断頭台で処刑される。……王の寵愛にすがって成り上がった女の、これ以上ない末路だろうよ』
(えっ……そんな未来が、あの人にも……)
マリーは、屈辱に震える一方で、デュバリー夫人の言葉にどこか虚しさを覚えた。
デュ・バリー夫人の勝ち誇った横顔も、いずれ歴史の波に呑まれて消える。それを知っていながら、今はまだ、何も変えられずにいる自分がいる。周囲の廷臣たちの目に映ったのは、王太子妃と国王の寵姫が、儀礼に則り、儀礼通りの言葉を交わしたという、ただそれだけの光景だった。
そして、その瞬間から、多くの貴婦人達がマリーに近づき含みのある笑みを向けてきた。口々に「デュ・バリー夫人と共に私もよろしくお願いいたします」「デュ・バリー夫人の主催するお茶会に来ません事? 私がお口添えしますわよ」などと、蜂蜜で出来た舌を巧みに使って。
誰もがその瞬間、マリー・アントワネットがデュ・バリー夫人に屈したのだと理解した。
◇
夜、自室に戻ったマリーは、寝台の端に腰掛けたまま、長い間動けずにいた。
窓の外には、煌々と明かりを灯すヴェルサイユの威容が広がっている。無数の燭台、金箔の装飾、着飾った貴族たちの笑い声。この巨大で華麗な化け物は、今夜も変わらずそこにあり続ける。
(……私は、何一つ変えられなかった)
膝の上で握った拳に、爪が食い込む。
「……うっ、く……」
『……お前が泣くとき、いつも自分が殺されることばかり考えてたはずだ。……今は、違うみてぇだな』
マリーは顔を上げず、掠れた声で答えた。
「……私が死ぬのは、怖くない……わけじゃないけど、自分が何も出来ないで殺されるのは……仕方が無い。でも、ルイ様が、罪のない人たちが、私のせいで死んでいくことは……せめて……ルイ様だけでも……」
沈黙が落ちた。マリーの言葉は嗚咽の向こうに消えていく。
『……力が、欲しいか』
それは、いつもの毒舌でも、突き放しでもなかった。まっすぐに、マリーの心を見ている、そんな問いかけだった。
マリーは顔を上げた。誰もいない暗闇を見つめながら、震える声で問い返す。
「……力があれば、歴史を変えられるの? ルイ様を、民を、救うことができるの?」
『……さぁな』
シャルルの声に、初めて迷いのようなものが滲んだ。
『歴史ってのは、そう甘くねぇ。俺一人の知識と、お前一人の覚悟だけで、何百万人分の運命がひっくり返るなんて保証は、どこにもねぇよ』
「……それでも」
マリーは涙を拭った。震えていた指先が、いつしか静かに止まっていた。
「それでも、何もしないよりはいい。……私次第、なのでしょう?」
『……ああ。……すべては、お前次第だ』
マリーは、ゆっくりと胸に手を当てた。心臓が、確かな速さで脈打っている。この小さな身体の奥に、まだ何も知らない、けれど何かを変えようとする意志が、確かに宿っていた。
「……この身が、砕け散ってもいい」
はっきりした声でマリーは告げた。震えてはいたが、もう揺らぐことはなかった。
「貴族達から最悪の王妃と蔑まれても構わない。……それでルイ様を、罪のない人たちを救えるのなら、私は……」
言葉の途中で、声が詰まった。だが、その瞳に宿った光だけは、消えることはなかった。
頭の奥深く、シャルルは長い沈黙の後、低く、ほとんど独り言のように呟いた。
『……ったく。柄でもねぇことをするハメになったな』
それは、諦めにも、苦笑にも聞こえる声だった。だが、そこに込められていたのは、間違いなく――かつて彼が捨てたはずの、何かを守ろうとする意志だった。
『いいだろう。……付き合ってやる、マリー。お前と一緒に、歴史を変えてやる』
窓の外ではヴェルサイユの明かりが、歴史が動き始めたことなど何も知らずに煌々と輝いていた。




