第17話 冷たい視線
朝の廊下を歩いていると、すれ違いざまの侍女たちの視線が、いつもより粘つくものに変わっていることにマリーは気づいた。
「――王太子殿下の御手のこと、聞きまして?」
「ええ、ええ。何でも、お一人で錠前をいじっておられて、うっかり切ってしまわれたとか」
「まあ、王太子ともあろうお方が、子供のような遊びに夢中になって……」
囁きは、マリーの姿を認めた途端にぴたりと止み、代わりに慇懃な会釈と、貼り付けたような微笑みだけが残された。だが、扇の陰の嘲りの色までは、隠しおおせるものではなかった。
(違う。ルイ様は、私を庇って……)
真実を叫びたい衝動が喉元まで込み上げる。だが、それを口にすれば、なぜ刃が自分の首に向けられていたのかを語らねばならない。喉の奥に苦い塊が押し留められたまま、マリーはただ俯くしかなかった。
◇
その日の午後、庭園の四阿でルイと二人きりになった時、マリーはとうとう堪えきれずに口を開いた。
「……ルイ様。なぜ、真実をお話しにならないのですか。あなたが私を守って怪我をされたのだと、皆に知っていただければ……」
包帯の巻かれた右手を膝の上に置いたまま、ルイは静かに首を振った。
「いいんだ、マリー。……そんなことに関わらなくていい」
「ですが!」
「君を守れたなら、それだけで僕は十分なんだ。それに、そんな貴族の戯れ言よりも君の言っていることの方が正しい。民が苦労しているのは事実だ。そんな事は誰でも知っている。その事実から目を逸らし、不都合な現実を放置していたら取り返しのつかないことになる……僕もそんな気がするんだ」
「……ルイ様」
穏やかな、けれど揺るぎのない声だった。不器用で、口下手な彼らしい言葉。だが、その裏にあるものをマリーは悟った。ルイは賢い。だから、マリーが何度か口にしたように、民の不満を放置していてはいつか恐ろしい事が起こるのでは無いかという、漠然とした不安を持っているのだ。そして、もしそんな状況になっても必ずマリーを守るという決意が温かく伝わってくる。
胸の奥が、締め付けられるように熱くなった。
(私は、守られるばかりだ……)
前夜、闇の中でともった小さな決意の灯火を、マリーはそっと胸の内で握りしめた。もう一度、逃げずに立ち向かおう。だが、何をどう戦えばいいのか、彼女はまだ何一つ知らなかった。
◇
その夜、寝所でひとり物思いに沈んでいたマリーの脳裏に、シャルルが囁いた。
『……で、いつまでめそめそしている気だ』
(……武器が、欲しいの)
マリーは静かに、けれどはっきりと答えた。
(あなたの言う通りだった。私は何も知らない。この宮廷で誰が誰と繋がって、誰が本当の敵で、誰が味方になり得るのか……。知らなければ、また同じように踏みにじられるだけだわ)
脳裏の奥で、シャルルが僅かに沈黙した。それは探るような間だった。
『……ようやく少しはマシなことを言うようになったな』
そして、彼は続けた。
『一人、役に立つ女がいる。ランバル公妃だ』
(ランバル公妃……? コンピエーニュの森で、最初に出迎えてくださった、あの?)
『そうだ。あいつを呼べ』
(……どうして、彼女なの?)
『……理由なんざねぇ。あいつはまだ敵じゃ無い。お貴族様の本音ってやつが聞けるはずだ。だが……』
(……)
『まだ味方だと思うな』
その声の底に、マリーが知らない何かが沈んでいる気がした。だが、深追いする余裕はなかった。藁にもすがる思いで、マリーは数日後、ランバル公妃を私室へと招いた。
◇
ランバル公妃は、噂に違わぬ優しい面差しの女性だった。マリーが率直に、宮廷の力関係を――誰が誰の派閥に属し、何が「常識」とされているのかを教えてほしいと乞うと、彼女は驚いた様子を見せながらも、丁寧に、静かに語り始めた。
そして語られる内容は、マリーの想像を遥かに超えて、彼女の心を凍りつかせるものだった。
聖職者も、大貴族も、その多くが「タイユ(人頭税)」をはじめとするあらゆる直接税を免除されている。それは彼らにとって恥じるべき特権などではなく、「神と血統によって定められた、当然の権利」なのだと、ランバル公妃は淡々と、まるでそれが世界の自然の摂理であるかのように説明した。
「……では、その、国を支える税は、誰が?」
震える声で尋ねたマリーに、ランバル公妃は困ったように微笑んだ。
「それは、平民たちが。当然のことですわ、殿下」
当然。その言葉が、マリーの胸に杭のように打ち込まれた。着飾り、舞踏会に興じ、贅を尽くした食卓を囲む者たちの足元で、痩せ細った子供たちがパンを求めて彷徨っている。その歪みを、彼らの誰一人として「歪み」だとすら思っていない。それは悪意ではなく、生まれ落ちた瞬間から刷り込まれた、疑いようのない「秩序」なのだ。
ランバル公妃が退出した後、マリーは一人、椅子に沈み込んだ。知れば知るほど、目の前に立ちはだかる壁の巨大さだけが露わになっていく。
「……どうすればいいの」
声にならない呟きが漏れる。頭の奥で、シャルルが鼻で笑う気配がした。
『だから言ったろ』
低く、突き放すような声だった。
『王侯貴族なんてのはな、揃いも揃って特権に群がる虫ケラだ。神から特権を授かっただと? 笑わせる。ただの盗人が、盗んだ金で御大層な理屈をこしらえてるだけだ』
(……でも、皆それを、本気で信じているの。悪意なんて、どこにも……)
『悪意がねぇから、なお質が悪いんだよ』
シャルルの声には、いつもの投げやりな響きの奥に、微かな苛立ちが滲んでいた。
『自分が虫を踏み潰してる自覚すらねぇ奴に、虫の痛みなんざ分かるわけがねぇ。……お前がどれだけ足掻いたところで、この化け物は簡単には崩れねぇぞ』
その言葉を最後に、シャルルの気配は再び深い静寂へと沈んでいった。
◇
数日後の夜会。
マリーが「社交界について学びたがっている」という話は、いつしか歪んだ形で宮廷中に広まっていた。
「王太子妃殿下は、平民の暮らしぶりをいたくお気になさっているとか」
「先日もあれほど陛下に諫められたというのに、まだお懲りにならないのね」
「オーストリアの流儀を、この国に持ち込むおつもりかしら」
くすくすと漏れる忍び笑い。扇の陰から向けられる、憐れみと侮蔑の入り混じった視線。誰もマリーに正面から非難をぶつけはしない。ただ、遠巻きに、腫れ物にでも触れるように扱われる。その静かな排斥こそが、直接的な悪意よりもずっと深く、マリーの心を切り刻んだ。
会場の隅で、誰にも声をかけられぬまま佇むマリーは、ふと視線を感じて振り向いた。
離れた回廊の陰。煌びやかな黄金のドレスを纏った一人の女性が、こちらをじっと見つめていた。
(……デュ・バリー夫人)
彼女は優雅に扇を揺らしながら、口元に静かな笑みを湛えていた。一切の言葉を発することなく、ただマリーを見つめている。
マリーの背筋を、冷たいものが伝った。




