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断頭台が嫌なら世界を征服すればいいじゃない  作者: 朝日カヲル
第二章 暗雲のヴェルサイユ

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第16話 孤独な王太子妃(4)

 一方、自室に戻ったマリーは、侍女たちをすべて下がらせると、ドアに背を預けてそのまま床へ崩れ落ちていた。


 涙が留めなく溢れ出て、美しいドレスの胸元を濡らしていく。宮廷からの冷ややかな視線。ルイ15世という絶望的な王統の壁。そして、己の未熟さと無力さ。正しいと信じて踏み出した一歩は、自分自身を深く傷つけ、孤立させる結果にしかならなかった。


「……うう、くっ……」


 膝を抱えて声を押し殺して泣くマリーの精神の奥底で、ふっと冷たい気配が立ち昇った。


『だから言ったろ』


 脳内から、あきれ返ったシャルルの声が響く。


『お前の小さな頭で考えた「正しさ」なんてな、あの老人たちが何百年もかけて築き上げた「正しさ」の前じゃ、羽虫の一突きほどの価値もねぇんだよ』


 (……じゃあ、どうすればいいの?“王族らしく”は、民を顧みず豪華に振る舞うって事なの……?)


 マリーは膝に顔をうずめたまま、声に出してしゃくりあげた。


 (私が贅沢をしたから、民の苦しみを理解しなかったから私やルイ様が処刑されるんでしょ?じゃあ、どうすればいいの?処刑される未来しか無いの?)


『……民の苦しみ……か。別に民衆のことを気にする必要なんてねぇ。あいつらは、お前達を殺した後、どうすると思う?』


(え?どうするって……)


『今度は自分たちで殺し合いを始めるんだぜ。専制君主という“枷”がなくなったとたん、権力争いを始めるんだ。そして権力を握った民衆の代表ってヤツが……その民衆を50万人殺す』


 (えっ?ご…じゅう…万人?)


『ああそうさ。その大虐殺が飛び火することを恐れたお前の母国オーストリアやその他の国がこのフランスに攻め込む。そして200万人が殺される』


 (そん…な……)


『それだけじゃねぇ。混乱したフランスを立て直すために民衆はどうしたと思う?くくく、本当に愚かな連中だ。自分たちで国王を殺しておいて、困ったからコルシカの男を国王にするんだぜ。そしてその男は、全ヨーロッパに戦争をしかける。お前の母国のオーストリアも、フランスに負けて国土の3分の1を失うんだ。その結果、ヨーロッパ全域で700万人が死ぬ』


 (オーストリアが……負ける……700…万もの人が……)


『ははは、笑えねぇ喜劇だな。お前が浪費して浮気しまくったせいで1000万人が死ぬんだ。何の関係もない子供や赤子もな。もし本当に悪魔が居るんだとしたら、それはお前のことだろうな』


 (……私が……悪魔……)


 マリーは涙に濡れた顔を上げ、誰もいない自室の暗闇を見つめていた。


 (私の存在が、ルイ様を……ううん、オーストリアを滅ぼして……1000万人もの命を奪うというの……?)


 胸を押し潰していたのは、己の死への恐怖ではなかった。自分という人間が存在すること、そのものが引き起こす、未来の惨劇への途方もない罪悪感だった。


 愛する夫も、愛するオーストリアの民も、自分がここにいるだけで破滅の渦へと引きずり込まれていく。ハプスブルクの温室を抜け出し、右も左もわからぬまま、ただオーストリアとフランスの友好になればと思っている善意が、まさかそんな大きい災厄の種になるなんて。


「……なら、私が消えれば……」


 ぽつりと漏れた弱々しい呟きは、静寂に消えた。マリーは震える膝を押さえながら身を乗り出し、机の上に置かれた一筋の光――真鍮のペーパーナイフへと手を伸ばした。冷たい金属の柄を握りしめると、燭台の炎を映して鈍く光る刃先を、己の細い首元へとしずしずと押し当てる。


 押し込めば、すぐにも激痛と死が訪れる。


『……フン、それがいいかもな』


 思考の奥底、脳裏の暗闇から、シャルルの声が冷たく落ちてきた。投げやりで、感情を殺した響きだった。


『断頭台で群衆に罵られて首を刎ねられるよりは、今ここで終わらせた方がお前にとっちゃずっと幸せだ』


 (……そうね……ありがとう……シャルル。ごめんなさい……ルイ様……)


 マリーはまぶたを閉じ、刃の柄を握る手に力を込めた。


 その時――。


 ドアの方からノック音が聞こえた。


「マリー、まだ起きているかい?」


 それは夫、ルイの声だった。今一番聞きたくなかった声。今一番聞きたかった、このヴェルサイユで唯一自分の側に寄り添ってくれる人の声。


 マリーは何も答えなかった。そして、ルイが入ってくる前に全てを終わらせよう。それが二人にとって、オーストリアとフランスの民にとって一番の幸せに繋がるのだから。


「何をしているんだ!マリー!」


 普段の彼からは想像もつかない、切迫した叫び声だった。ルイが扉を開けて駆け込んできたのだ。マリーの顔を思い出す度に胸騒ぎに襲われた彼は、居ても立っても居られなくなった。そして、マリーの手に握られた刃を目にした瞬間、顔から一切の血の気を失わせた。


 ルイは考えるよりも先に身体を躍らせ、なりふり構わずマリーの手元へ飛びついた。


「やめろ――っ!」


「ルイ様……っ!?」


 強い衝撃とともに、刃がマリーの喉元から弾き飛ばされる。 床に落ちたのは、金属の冷たい音だけではなかった。


 ポタ、ポタと、重い雫が白い絨毯へ落ち、赤い染みを作っていく。


 ルイが素手で刃を握り、マリーからナイフを力任せに奪い取っていたのだ。彼の右の掌から溢れ出た鮮血が、指先を伝ってボタボタと床を濡らしていく。


「ルイ様……! 手が……手が血だらけに……!」


 あまりの光景にマリーが悲鳴をあげたが、ルイは自身の傷口など一瞥もしなかった。彼は血まみれの手も構わず、マリーの華奢な肩を掴むと、そのまま強くその身体を抱き寄せた。


「マリー……! マリー……!」


 煤と鉄の匂いが混ざる、彼の粗く乱れた吐息と、力強い体温。ルイは固く目を閉じ、壊れものを慈しむように包み込む。そして絞り出すように呟いた。


「……ごめん。ごめんよ、マリー……」


「ルイ……様……?」


「僕が……僕が不甲斐ないばかりに、君をここまで追い詰めてしまった……。僕がもっと頼もしい男なら、君にこんな恐ろしい思いをさせずに済んだのに……!」


 ルイの声は震えていた。彼は決して口達者な人ではない。己の感情を言葉にするのが誰よりも苦手な男だった。その彼が、心臓の動悸を直接伝えるようにマリーを抱きしめ、自分の無力をどこまでも責め、涙声で詫びている。


 マリーの首筋に、ぽたりと温かい雫が落ちた。 ルイの涙だった。


 己の命を投げ出そうとした自分を、傷つくのも構わずに止め、ただひたすらに自分の無力さを恥じる夫。 その痛々しいほどの優しさと温もりが、マリーの凍りついた心にゆっくりと、けれど確実に浸透していく。


 マリーの視線が、ルイの血に染まる手へと落ちた。 そして、自分の胸元で冷たく触れる小さなロザリオへ。


 (ああ……この人は、こんなにも私を想ってくれている……)


 仮に未来がどれほど暗くとも。 自分がいつか悪魔と呼ばれ、残酷な運命に呑まれるのだとしても。この優しい人を置き去りにして、ひとりだけ逃げ出すことなどできるはずがなかった。


「……いいえ、ルイ様。違うのです……」


 マリーは血のついた彼の衣服にしがみつき、彼の広い胸に深く顔をうずめた。こらえていた感情が一気に溢れ出し、大粒の涙が彼の胸元を濡らしていく。


「私が……私があまりに愚かで、弱かったのです……。ごめんなさい、ルイ様……ごめんなさい……!」


「いいんだ、マリー。もういい……」


 ルイは血の滲む手でマリーの頭をそっと包み込み、幼子をあやすように優しく撫でた。


「君を一人にはしない。僕が……何があっても君の側にいるから……」


 その不器用な言葉は、どんな甘い誓いよりも強く、マリーの魂に届いた。

 マリーは涙を拭い、彼の胸の中でゆっくりと息を吐いた。


 (もう少しだけ……この人の温もりのために、抗ってみよう)


 胸の奧で、かすかな決意の灯火がともった。それは、まだ風が吹けば消えてしまいそうな小さな炎だったが、冷たかった少女の心に、確かな熱を取り戻させていた。


 頭の深層で、シャルルはその姿を「観測」していた。いつものように「だから言っただろ」とあざ笑い、無知で青臭い少女が身の程を知って泣いている惨めな姿を冷ややかに見届ければいいはずだった。歴史の運命に逆らえず、踏みにじられていく無数の敗者の一人として、ただ切り捨てればいいはずだった。


 ――なのに。


『……チッ』


 シャルルは胸の奥を突き刺すような、不快で鋭い違和感に苦々しく眉をひそめた。


 特権にあぐらをかいて民衆を苦しめてきた王族の涙など、断頭台へ続く花道を飾る宝石のようなモノだ。自分は、血も涙も無い特権階級と戦ってきた二十三世紀の軍人であり、未来を知るだけの「観測者」に過ぎないのだ。 ……そう自分に言い聞かせながらも、シャルルは自分の中に生じた、自分に対する嫌悪を認めまいとするように、それ以上何も語らず、ただ深い沈黙の中へと沈んでいった。


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― 新着の感想 ―
更新お疲れ様です。 シャルルという男に特権階級に対する憎悪や嫌悪があるのは解りますが、根本には弱い者に対する嫌悪があるような気がします。 その中には、自分も含まれていることに薄々気付いているみたいで…
ううっ、痛そう・・・。
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