第15話 孤独な王太子妃(3)
その日の夜、国王との夕餐の場。
豪華絢爛な大食堂。無数のろうそくが眩いばかりの光を放ち、銀製の食器が燦然と輝いている。長テーブルの主座に座るのは、フランス国王ルイ15世。そしてその傍らには、王の寵姫であるデュ・バリー夫人が、惜しげもなく宝石を散りばめた黄金のドレスを纏って寄り添っていた。
食事の最中、ルイ15世が不意にグラスを置き、静かにマリーへ視線を向けた。
「……王太子妃よ」
低く、重厚な声。それだけで食堂の全空気が緊張で張り詰める。
「今朝、身支度の場において、ネックレスを拒んだと聞いたが……誠か?」
マリーの背筋に冷や汗が流れた。ルイ(王太子)が隣で息をのむ気配が伝わってくる。マリーは意を決し、王の視線を受け止めた。
「……はい、陛下。過剰な装飾を控え、王家が民の苦しみに心を寄せていることを形として示すべきだと思ったのです」
沈黙が落ちた。ルイ15世の表情には、怒りも、苛立ちすらも浮かんでいなかった。ただそこにあるのは、圧倒的な「支配者」としての静謐さだった。老王は、まるで世界の理を教え諭すかのように、緩やかに口を開いた。
「……余が、民を苦しませていると?」
低く落ちたその問いに、広間から血の気が引いた。王の隣に座るデュ・ヴァリー夫人は大きく目を見開いて、奇異な物を見るような表情をマリーに向けている。
「えっ……」
「余の治世が民を虐げ、王家が彼らを顧みぬと……そう申すのだな、マリー」
威圧するような声ではない。だからこそ、老王の背負う歴史の重みが、容赦なくマリーの胸を突いた。マリーは言葉を失い、喉が引きつった。自分の発した「民の苦しみ」という善意の言葉が、王の治世そのものへの無礼な批判となり、己の無知を晒す刃となって跳ね返ってきたのだ。
ハッとしたマリーの額から、冷たい汗が伝う。ハプスブルクの温室で育ち、「可哀想な民のために」と無邪気に信じ込んでいた己の考えが、どれほど浅はかで愚かなものであったか。ヴェルサイユという国の中心で、自分がいかに何も知らずに口を開いていたかを思い知らされ、全身が凍りついた。
老王はマリーの動揺を見つめたまま、教え諭すように言葉を継いだ。
「考え違いをしているようだな、マリー」
老王の言葉には、威圧感というよりも、数百年の歴史を背負ってきた確たる自負の念が宿っていた。
「王家の豪華さは、自慢や娯楽のためにあるのではない。王家の威厳こそがフランスという国家の秩序であり、民をひれ伏させ、外敵から国を守る力の源泉なのだ。それを削ぐことは、優しさではない。王家の威信を傷つけ、国家の秩序を揺るがす……我がフランスへの侮辱であり、罪なのだよ」
「っ……!」
マリーは言葉を失った。 ルイ15世は、悪意で言っているのではなかった。性根の腐った悪党としてマリーを虐げているのでもなかった。彼は心から「王家の贅沢と威厳こそが国家の秩序であり、民を守る正義である」と信じ切っているのだ。マリーが正しさを求めて放った言葉は、老王にとってみれば「国家の土台を破壊する暴論」でしかなかった。
悪意ならば、撥ね返すこともできたかもしれない。だが、あちら側にも「数百年培われてきた論理」があるのだと思い知らされた瞬間、マリーが盾として掲げていた拙い善意は、脆くも砕け散った。
「お前がオーストリアでどのような教育を受けたかは知らん」
ルイ15世は興味を失ったように視線を外し、肉を切り分けた。
「だが、ここは大国フランスだ。王太子妃として我が国の秩序に従えぬというのなら……お前の存在そのものが、我が国にとっての害毒となるぞ」
王の傍らで、デュ・バリー夫人が優越感に満ちた微かな笑みを浮かべた。 彼女は、この「贅沢と威厳」というシステムの中で泥をすすり、勝ち上がってきた女だった。マリーの掲げる青臭い理想主義など、彼女にとってみれば鼻で笑うような滑稽な戯れに過ぎないのだ。その憐れみと軽蔑が混ざった視線が、マリーの心に容赦なく刺さった。
隣に座るルイの顔を見た。助けを求めたかった。だが、ルイは青ざめた顔で手元の皿を見つめたまま、一言も発することができずにいた。祖父である国王の威圧感の前に、10代の少年である彼はまるで小動物のようにすくみ上っていた。
――自分は、この広い宮殿にただ一人きりなのだ。
その事実が、氷の針となってマリーの全身を貫いた。
◇
参内を終え、一人で自分の部屋に戻ったルイは、薄闇の中で激しく震える手を見つめていた。
「……僕は、何をしていたんだ」
絞り出すような声が、無人の室内に落ちる。
昨夜、あんなにも愛おしく感じた少女。自分が守ると、神に誓ったはずの相手。それなのに、祖父の一言で身体が凍りつき、マリーが孤立無援で傷ついている間、自分は何も出来ずただ黙って下を向いていた。
(僕は彼女を守りたいと思った。……だが、僕は王太子だ)
胸を刺すのは、守るべき妻を守れなかった男としての猛烈な羞恥だった。だがそれ以上に、重くルイの首を絞めるのは「血の呪縛」だった。
王太子である以上、専制君主である祖父の決定や言葉を否定することは、自らが生まれ落ち、いずれ頂点に立つ「フランス王国」の王権そのものを否定することと同義だった。祖父を裏切ることは、自分が王太子であることの根底を削り取ってしまう。
マリーを守りたいという個人としての想いと、王家と世界の秩序を肯定しなければならない王太子としての重圧。ふたつの狭間で引き裂かれながら、ルイは己の無力さを噛み締め、生まれて初めて自らの背負う王冠の歪んだ重みに恐怖していた。




