番外編1 父の歴史書
翌週、カドゥラン商会から手紙が届いた。
父の歴史書の出版費用を全額負担したい、という申し出だった。連合の主要図書館と教育機関への配布も手配する、と書いてあった。
父は手紙を読んで、長い間黙った。
「カイルという男は」と父はゆっくり言った。「本物だな」
「……そうですね」
「あの書は、帝国側から見た工業化との比較記録だ。新興連合の人間が読めば、帝国がいかに彼らを見下してきたかもわかる。それでも配布したいと言う。懐の大きい男だ」
「お父様」
「悪くないぞ」父はあっさりと言った。「出身がどこであれ、人を見る目がある男だ。それだけで十分だ」
エルザは何も言わなかった。ただ、お茶を一杯、丁寧に淹れた。
その夜、エルザは父の隣に座った。
「お父様」と彼女は言った。「カイルさんに、告白されました」
「ほう」
「その告白に、私も愛しています、と答えました」
「ほう!」
父は三秒、固まった。
「そうか」父はゆっくりと、麻痺していない右手をエルザの頭に置いた。
エルザはその手の重さを感じた。
子どもの頃、何度もそうしてもらった手だ。父が元気だった頃の。
「お父様」
「なんだ」
「私、ちゃんとやれていますか?」
「聖女じゃない私でも、ちゃんとやれてますか?」
父はしばらく考えた。
「やれている」と言った。「充分すぎるくらい」
「でも」
「エルザ」父は言った。「お前は魔力が枯れて、婚約を破棄されて、すべてを失って、バリスタになった。それでも自分の足で立っている。お父さんは、それを全部見ていた。誇りに思う」
「それにな、どんなエルザでも、お父さんの可愛い娘だよ。ちゃんとやれてるとか、やれてないとか、どっちでもいいんだよ。エルザが生きてさえいてくれたら」
「生まれてきてくれてありがとう、エルザ」
エルザの目に、涙が滲んだ。
「エルザが図書館から本を運んできてくれたから、歴史書を書けたよ。エルザがお茶を淹れてくれたから、続けられた。エルザがここにいるから、お父さんはまだ前を向いていられるだ」
「お父様——」
父が麻痺した右手でエルザの背中をゆっくりと叩いた。子どもの頃と同じリズムで。力は弱くなっていたが、リズムは同じだった。
「大丈夫だ」と父は言った。「お前はちゃんとやっている」
「だから、幸せになりなさい」
窓の外、帝都の夜がゆっくりと目を覚ます。
並んで灯される、帝国の紋章と連合の緑の旗。
混ざり合うことのない二つの色が、変わりゆく時代の境界線を照らしていた。
帝国の夕暮れ。
今日もまた、空を染めるオレンジ色は、とても美しかった。




