最終話 アドルフへ
その日の夕方、エルザはアドルフに手紙を書いた。
長い手紙にはしなかった。
ただ、正直に書いた。答えが出たこと。その答えがどちらだったか。遅くなってごめんなさい、ということ。あなたはこれから絶対に幸せになれるということ。
封をして、届けた。
翌日、アドルフが返事を持って帝國カフェーに来た。
いつもの席に座って、銀露を頼んだ。エルザが淹れて持っていった。
アドルフはカップを一口飲んで、少し目を細めた。
「うまいな」
「ありがとう」
「俺は……怒ってないぞ」
「わかってるわ」
「本当に」アドルフは窓の外を見た。「お前が決めたなら、それが正解だ。俺はずっと、そう思っていた」
「アドルフ」
「なんだ?」
「アドルフは——絶対に、いい人に会える」エルザははっきり言った。「アドルフは素敵な人だから」
「そうか」アドルフは笑った。少し目が赤かったが、笑っていた。「じゃあ、お見合いの話、進めるか」
「うん。いい人に出会えると信じてるわ」
「……エルザ」
「なに?」
「幸せになれよ」
「ありがとう、アドルフもね」
アドルフはそれ以上何も言わなかった。お茶を飲んだ。エルザはカウンターに戻った。
今日のアドルフの銀露に、ジャカランダの紫の花びらが一枚、ふわりふわりと落ちてきた。
半年後、アドルフの婚約が決まったという知らせが来た。
相手は騎士団に出入りしている医師の娘で、アドルフより三歳年下の、気の強い女性だという。
アドルフがカフェーで報告してくれたとき、エルザはカウンターの内側で「よかった」と言った。心から。
「どんな方なの?」
「俺が何か言うと、すぐ言い返してくる」アドルフは言った。「なんか、エルザにに似てるかな」
「……似ていないよ。たぶん。私そんなにアドルフに言い返してるかな?」
「言い返してるぞ〜。気づいてないんだな。それに、エルザは俺にめちゃくちゃ毒舌じゃん?そんなとこも似てるんだよね」
「それは——」エルザは少し考えた。「ご愁傷様」
「ん?何がだ?」
「強い女性に縁があるのね、アドルフは」
アドルフは笑った。
「まあな」彼は言った。「俺にはそれが合ってるんだろう、たぶん」
エルザも笑った。
今日のアドルフの銀露は、少し甘めにゆっくりと淹れた。お祝いの気持ちを込めて。
「やっぱり、うまいな」とアドルフは言った。
「ありがとう。いつもそう言ってくれて」とエルザは言った。
「エルザ」
「ん?どうしたの?」
「今、ちゃんと幸せか?」
エルザは少し考えた。
「うん。幸せだよ。ありがとう」
ジャカランダの花びらが二枚、二人の真ん中にひらりひらりと、ゆっくり落ちてきた。
カランコロン、と鈴が鳴った。新しいお客が入ってきた。エルザは姿勢を正して、微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
奥の席に、カイルがいた。
エルザが仕事をする姿を、静かに、ずっと見ていた。
石段の端から扉を眺めていたあの頃と、同じ目で。
カイルと目があったエルザは、幸せそうに、でも恥ずかしそうに微笑んだ。
その日の夕方、エルザがカウンターを拭いていると、カランコロン、と鈴が鳴った。
エルザが手を止めて顔を上げると、
小さな女の子が立っていた。
五〜六歳くらいだろうか。薄茶色の髪が、くしゃくしゃになって顔にかかっている。白い膝丈のワンピースもシワシワで、靴の先が少し汚れていた。両手で、何か紙のようなものをぎゅっと握りしめている。
店内を見回して、それからエルザを見た。
迷子ではなさそう、とエルザは思った。女の子の目は、ぼんやりと店内を見つめている。
「いらっしゃいませ」
エルザはカウンターから出た。しゃがんで、女の子と目線を合わせた。
「あら?お嬢ちゃん、一人で来たの?」
女の子は頷いた。
「そう。お名前は?」
「……ナタリー」
小さな声だった。でも、はっきりしていた。
「ナタリーちゃん。ここに、誰かを探しに来たのかな?パパかな?ママかな?」
ナタリーは少し考えてから、握りしめていたものを差し出した。
くしゃくしゃになった手紙だった。
封筒の表に、丁寧に書かれた筆跡で名前が書いてあった。
エルザ・ヴァイスベルク様、と。
エルザは手紙を受け取った。封筒が、少し湿っていた。ナタリーがずっと握りしめていたから。
「お母さんが」とナタリーは言った。「病気で死ぬ前に、あなたにこれを渡しなさいって」
エルザはそっと顔を上げた。
ナタリーは泣いていなかった。ただ、まっすぐエルザを見ていた。
「あなたのお母さんは、死んじゃったの?」
「うん。先月」
「……そう」
エルザはしばらく、手紙を見た。差出人の名前が書いてある。
マリア・ゼーン。
その名前を、エルザはどこかで聞いたことがある気がした。母か父の、古い友人だったか?えっと、思い出せない。名前を知っている気がするのだが、でも顔は思い出せない。
「ありがとう、ナタリーちゃん。ちゃんと届けてくれたんだね」
ナタリーは頷いた。それから、きょろきょろと店内を見回した。
吹き抜けの天井まで伸びるジャカランダを見上げて、少し目を細めた。
「ねえ」とナタリーは言った。
「なあに?」
「あの木」ナタリーは上を指さした。「光ってるよね?すごく綺麗だね」
エルザは見上げた。
ジャカランダは、いつもと同じように立っていた。紫の花を、静かに垂らして。
エルザには光ってるように見えなかった。
「光って……る?どういうこと?」
「うん」ナタリーはあっさり言った。「きれいな色だね。キラキラしてるよ」
エルザはもう一度、木を見た。
やはり、何も見えなかった。
「ナタリーちゃん」
「なに?」
「ナタリーちゃんは、もしかして、何か特別なことができるのかな?」
ナタリーは少し考えてから、こともなげに言った。
「うん。実は、魔法が使えるよ。でもママには内緒にしなさいって言われてる。お姉ちゃんは、特別だよ」
エルザは、手紙を握りしめた。
(まさか!?本当に?でも、この子が嘘をいっている様には見えない……)
魔力は帝国から無くなったはずなのに。どうして、この女の子は魔法が使えるんだろう。
もし魔力がまだ存在するとしたら、どうして私の魔力は枯れてしまったんだろう。
カランコロン、と——風もないのに、真鍮の鈴がかすかに揺れた。
<第二章へ続く>
「魔力が枯れた没落聖女に向けられた、『二十年越しの恋』」の第一章を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
カイルとエルザ、二人の物語はようやく動き出したばかりです。
現在、第二章の執筆と全体の改稿作業を進めております。
準備が整い次第、順次公開してまいりますので、二人の行く末をもうしばらく温かく見守っていただければ幸いです。




