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没落聖女の逆転再出発~一杯のお茶を施した少年が砂塵の王となって、二十年後、私を迎えにきました〜  作者: 風谷 華
第一章

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25 最後のパール

 翌朝、エルザはいつもより早く出勤した。


 まだ開店前の店内は、静かだった。椅子が全部テーブルの上に乗っている。窓から朝の光が差し込んでいる。香りだけが、昨日の続きのようにある。


 開店準備を始めながら、エルザは棚を確認した。


 茶葉の在庫。カップの状態。お湯の具合。


 棚の一番奥に、手が触れた。


 小さな缶だった。


 取り出して、ラベルを見た。


「白真珠」——パール。


 一缶だけ残っていた。最後の一缶。


 エルザはしばらく、その缶を持ったまま立っていた。



 この特別な茶葉を、誰かに淹れたいと思ったとき——


 エルザは自分の心に、静かに問いかけた。


 誰の顔が浮かぶか。


 目を閉じた。



 アドルフの顔が浮かんだ。


 お菓子屋の店主に「また二人で来たのね」と言われたときの、少し耳の赤いアドルフ。「毎朝待ってたんだから」と言ったアドルフ。「また来ような」と言ったアドルフ。


 温かかった。本当に、温かかった。


 ずっと、そばにいてくれた人だ。婚約破棄されても、魔力が枯れて聖女でなくなっても——変わらずそこにいてくれた。


 エルザはアドルフを、大切に思っていた。



 でも。



 カイルの顔が浮かんだ。


 石段に座っていた少年。扉の向こうを見ていた目。「一生、忘れません」と言った声。砂漠料理の店で、珍しく力の抜けた笑い方をしたカイル。扉の前で、振り返らずに止まったカイル。

 最初、聖女だった自分こそが、彼の求める姿なのだとばかり勘違いしていた。

 でも、カイルは昔の私も、今の私も地続きの一人の人間としてちゃんと見てくれている。


 胸の奥で、何かがじわりと動いた。


 昨日カイルが帰ってから、ずっと考えていた。

「振り向いてほしかった」と思った。


 それが何なのか——エルザにはもう、わかっていた。


 アドルフのことを思うとき、胸が温かくなる。でもカイルのことを思うとき、胸が——痛い。苦しい。切ない。


 カイルが離れて行ってしまうかもしれないと、想像したとき、息ができなくなった。


 それが答えだった。



 エルザは目を開けた。


 パールの缶を、両手でしっかり持った。


 開店準備の続きをした。椅子を下ろして、テーブルを拭いて、お湯を沸かした。


 カランコロン、と鈴が鳴った。


 エルザは顔を上げた。


 カイルだった。


 いつもより早い時間だった。開店したばかりの、客がまだ誰もいない店内に、カイルが立っていた。少し、迷ったような顔をしていた。


「……開いていたので」


「ええ、今日は早めに出勤したんです」


「もしかして、お邪魔でしたか?」


「いいえ。大丈夫ですよ」


 沈黙があった。


 カイルがいつもの席に向かおうとした時、エルザは言った。


「カイルさん」


「はい」


「今日は——カウンターの前に座ってもらえますか」


 カイルは少し目を見張った。それから、頷いた。


 カウンターの前の椅子に座った。エルザとの間に、カウンターだけがある。



 エルザはパールの缶を手に取った。


「今日は、特別なお茶を淹れます」


「何ですか?」


「パールです」エルザは言った。「最後の一缶です」


 カイルが、かすかに息を止めたのがわかった。


「……それは」


「あなたのために、淹れたいんです」


 カイルは何も言わなかった。


 エルザは手を動かした。



 まず、カップを温める。


 今日は自分のカップを選んだ。

 薄い白磁に細い金の縁取りが施された、小振りのカップ。

 母の形見であるそれが、手の中で微かに冷えていた。


 お湯を注ぎ、三十秒。その間に茶葉の揺らぎを見つめ、今日の湿り気を肌で測る。

 いつもより、ほんの少し多めに。


 お湯を捨てると、陶器の内側に蓄えられた確かな熱が、手のひらを通じて心臓まで届いた。


 漆黒の茶葉を落とし、八十五度の湯を注ぐ。

 蒸らす時間は、二分四十五秒。


 ――店内から、一切の音が消えた。

 砂時計が時を刻む微かな気配さえ聞こえそうな静寂の中、カイルの射抜くような視線が、片時もエルザから離れずにいた。

 

 そっと、茶を注ぐ。


「白真珠」の薄い翡翠色のお茶が、白磁のカップに満ちていく。光を受けて、静かに輝く。


 香りが立ち上る。花のような、草原のような、遠い山の頂の空気のような——言葉にしようとすると逃げていく香りだ。


 エルザはカップをカウンター越しにカイルの前に置いた。



「カイルさん」


「はい」


「一つだけ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「あの日——アドルフが告白したとき」エルザは静かに言った。「奥の席に、いましたよね」


 カイルは少しの間、黙った。


「……はい」


「聞こえていましたか?」


「……はい」


 エルザは頷いた。やはりそうだったのかと思った。


「それで——ずっと、いつも通りにしていてくれたんですね」


「あなたが、自分で決めることだと思ったので」


「そうですか」


 エルザはカウンターの上に、両手を置いた。


「私、考えました。ずっと」


「……ええ」


「アドルフのことも、あなたのことも。真剣に」


「わかります」


「アドルフは——本当にいい人です」エルザは言った。「五歳の頃から、変わらずそこにいてくれた。聖女だった時も、私の魔力が枯れても、家が没落しても。いい時も悪い時もずっと」


 カイルが、少し目を細めた。


「そうですね。いい人だと思います」


「でも」


 エルザは、カイルをまっすぐ見た。


「昨夜——あなたが振り返らずに扉の前で止まったとき」


「……」


「振り向いてほしい、いいえ、行かないでほしい、と思いました」


 カイルが、動かなかった。


「アドルフのことを思うとき、私の心は温かくなります。でも——あなたのことを思うと、苦しくて切ないんです」


 エルザは続けた。


「それが、答えだと思いました」


 沈黙があった。


 長い沈黙だった。


 カイルは両手を添えて、その小さなカップを大切に抱え上げた。

ひとくち、その温かさを確かめるように口に含む。


 彼は静かに目を閉じ、舌の上に広がる複雑な滋味(じみ)を味わった。


「……おいしい」と彼は言った。


「ありがとうございます」


「あなたが、今日このお茶を私のために淹れた。その気持ちが入っているから、おいしいです」


 エルザは少し俯いた。目が熱くなった。泣くまいと思った。


「カイルさん」


「はい」


「私はカイルさんを愛しています」静かに、はっきりと言った。「石段で会ったとき、あなたが私と同じ目でお茶を見ているのを見ました。その目を、私はずっと覚えていました。魔力が枯れて、すべてを失って——あの目を思い出していた気がします」


「エルザ」


「カイルさんは、人に上も下もないと教えてくれた。行動で。言葉ではなく。私はあなたのそういうところが、好きです」


 少し間を置いて、エルザは続けた。


「それと——もう一つ、伝えたいことがあります」


「何でしょう」


「あなたといると、自分らしくいられます」エルザは言った。「聖女でも、令嬢でも、没落した元貴族でもなく——ただのエルザでいられる。カイルさんの前では、そういう気がするんです」


 カイルは何も言わなかった。ただ、まっすぐエルザを見ていた。


「バリスタになれたのも、あなたに出会えたからです」エルザは続けた。「カイルさんが、何もないところから自分の力で積み上げてきたのを見て——何者でもなくなった私にも、できることがあるかもしれないと思えた。あなたがいなければ、私はずっと、ただ沈んでいくだけだったと思うんです」


「エルザ——」


「だから」エルザは言った。声が少し震えたが、止めなかった。「お礼を言いたかったんです。そして、愛していると伝えたかった」


 カイルはしばらく、動かなかった。


 それから、カウンター越しに手を伸ばした。


 エルザの右手を、そっと取った。薬指の傷跡の上に、親指をそっと置いた。


「俺も」と彼は言った。「エルザを愛しています。石段で会ったときから。ずっと。エルザは俺の初恋です」


 エルザは嬉しそうに、笑った。


 それから、少し真剣な顔になった。


「カイルさん」


「はい」


「一つだけ、お願いがあります」


「なんでしょう」


「しばらくは——ただのバリスタでいさせてもらえますか?」


 カイルは少し目を見張った。


「バリスタとして、もう少しここに立っていたいんです」エルザは言った。

「もし結婚するとなったら、ドゥラン商会の大商人の妻として、社交やそれに見合う仕事もするつもりです。それは逃げません。でも今は——このカウンターで、お客様の顔を見て、その人のためのお茶を一杯一杯淹れる時間を、もう少し味わいたいんです。自分の手で立つことを覚えたばかりだから、もう少しだけ、ここにいたいんです」


 カイルはしばらく、エルザを見ていた。


 それから、静かに笑った。


「いいですよ」と彼は言った。


「本当ですか」


「もちろんです」カイルは言った。「エルザがここに立っている姿が——俺は好きですから。急ぐ必要はないですよ」


 エルザは俯いた。

 

 そのとき、店内をふわりと風が通った。

 

 窓は開けていない。扉も閉まっている。

 それなのに、吹き抜けに(そび)え立つジャカランダの枝が、かすかに揺れた。紫の花びらがひとひら、ふたひら、静かに舞い落ちた。カウンターの上に、エルザとカイルの繋いだ手のすぐそばに、音もなく降り積もった。

 

 エルザは顔を上げた。カイルも、木を見上げた。

 二人とも、何も言わなかった。

 

 目が、また熱くなった。今度は、泣いてもいいかもしれないと思った。



「ありがとうございます」と彼女は言った。「本当に」


「こちらこそ」カイルは言った。「エルザが淹れてくれるお茶を、これからも飲ませてもらえるんですから」



 涙がこぼれそうになったその瞬間、カランコロン、と鈴が鳴った。


 ルーカスがいつもより早く出勤してきた。


 カウンター越しに繋がれた二人の手と、赤くなりながら見つめ合う二人の顔を見て、ルーカスが固まった。


「……先輩」


「なっ、な、なんですかっ!?」


「これは……あれっすね」


「な、なんでもありません!!」


「え、これ、あの、オーナーと——!?いやあ、おめでたいっす!!」


 コホン、とエルザは咳払いをした。


「ルーカス、いつもありがとね」


「え、え?は、はい!……え?」


 キョトンとするルーカスを見て、カイルが笑った。それを見て、エルザも笑った。


 カランコロン、と風が扉を揺らした。


 新しい朝が、帝都に広がっていた。

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