23 偶然聞いてしまった(カイル視点)
カイルがアドルフの告白を聞いたのは、偶然だった。
あの日、カイルはいつもより早く帝國カフェーに来ていた。
仕事の合間に少し時間ができて、早めにエルザのお茶が飲みたかったからだ。
いつものように奥の席に座って、仕事の文書を読んでいた。
そうしていると、アドルフがカフェーに入ってきた。
カイルは仕事に集中していたので、顔を上げなかった。
文書に目を落としたまま、気配だけを感じた。
アドルフがカウンターに近づいて、エルザに何かを言い始めた。
最初は、雑談だと思った。
しかしアドルフの声が、少し変わった。
カイルは文書から目を上げなかった。上げられなかった。
アドルフの声が続いた。
「——最後にもう一回だけ、俺との未来を真剣に考えてくれないか?」
カイルは、手の中の文書が見えなくなったのに気づいた。
「愛してるんだ。エルザのこと」
店内は静かだった。他の客は少なく、二人の声はよく聞こえた。
エルザが少し間を置いて、「わかったわ」と言った。
その「わかったわ」がどういう意味かは、わからなかった。
断りではなかった。かといって承諾でもなかった。
「考える」という意味だと、カイルは受け取った。
文書を、ゆっくりと折り畳んだ。
アドルフはカイルを牽制したくて、わざと聞こえるように告白をしたのかもしれないと思った。
もしくは、カイルへの宣戦布告だったのかもしれない。
どちらにせよ、厄介なことになったと思った。
その夜、セドリックが報告書を持ってきたとき、カイルはずっと窓の外を見ていた。
「代表、恋に悩む好青年ですなぁ」
「セドリック、揶揄うのはやめてくれ」
「きっとうまくいきますよ。大丈夫ですって」
「どうしてそんなこと分かるんだ?」
「年寄りの勘ですぞ」
「いい加減だな。年寄りの勘ほど当てにならないものはないけどな」
セドリックは黙った。しばらくして、静かに言った。
「それで、これからどうするおつもりで?」
カイルはしばらく答えなかった。
窓の外に、帝都の夜景が広がっていた。帝国の紋章と連合の緑の旗が、今は当たり前のように並んでいる。
「……エルザが、自分で決めるだろう」
「万が一、アドルフ殿を選んだらどうするんです?決闘でも申し込みますか?」
「決めたら」カイルは繰り返した。「それに従う。物騒なことを言うな」
「代表は」セドリックは少し声を落とした。「二十年間待ったんですよね?」
「そうだな」
「三十二歳の二十年って人生の半分以上ですな。私の二十年とは訳が違いますね」
「セドリック」カイルは振り返った。「俺がエルザを好きなのは、あの人が自分で決められる人間だからだ。その決断を奪う権利は、俺にはないんだよ」
「フォッフォッフォッ。よろしいでしょう。若さがゆえの、代表の恋心を、私も見守りいたしますぞ。恋敵を消したくなったら、いつでもお申し付けくださいませ。すぐに処理いたしますので」
「いやいやいや。そんな時は来ないから。セドリックは爺さんなんだから、爺さんらしくもっと穏やかでいてくれ」
カイルは再び窓の外を見た。
「セドリック、一杯付き合ってくれ」
カイルは琥珀色の液体を注ぎ、窓辺に立った。
(待てる。俺はずっと待ってきた)
自分に言い聞かせても、今夜は、グラスの氷が溶ける音さえ胸を抉る。
隣を歩けるようになった今だからこそ、届かない一線がじりじりとカイルの心を削っていく。
「……待つことには慣れているはずなのに。今夜だけは、肺が焼けるように苦しい」
絞り出すような独白を、老秘書は何も言わずに、静かな酒の音だけで受け止めた。
翌日、カイルはいつも通り帝國カフェーに行った。
いつも通りの席に座った。いつも通りエルザがお茶を持ってきた。
「はい、お待たせしました」
「ありがとうございます。うん。今日も、おいしい」
「ありがとうございます。ごゆっくりお過ごしくださいね」
エルザが戻っていった。カイルはその背中を、吸い込まれるように見つめていた。
白いエプロンの後ろ姿。カウンターの内側に立つ姿。お茶を淹れる、迷いのない手。
(好きだ。エルザがどうしようもなく、好きだ)
石段の下から見上げていたあの日から、何一つ変わっていない。
その事実だけが、今のカイルにとって唯一の、揺るぎない真実だった。




