22 迷い
エルザは今日も、お湯を沸かしながら考えていた。
考えたくないのに、考えてしまう。手が動いている間、頭だけがどこかに行く。
茶葉を量りながら。お湯の温度を確かめながら。カップを温めながら。
アドルフの「また来ような」が、ふとした拍子に浮かぶ。
カイルの「また来ましょうね」が、その後ろから来る。
どちらも、消えない。
(仕事中に考えちゃダメよ、エルザ)
心の中で、自分に言った。
「先輩、最近なんか変でっすよね?」
ルーカスが横から言った。
「何が?」
「ぼーっとしてるっす!いつもはお湯を沸かしながら茶葉の状態も確認してるのに、今日はお湯だけ見てたっす」
「そんなことないわ……茶葉も見ていたわ、ちゃんと」
「見てなかったっす。三十秒くらいやかんだけ見てたっす」
エルザはため息をついた。
「余計なことに気づかないでいいのに」
「先輩、それ余計なことじゃないっす、仕事っす」と言ってルーカスはニヤリと笑った。
「さては、恋煩いっすね〜」
「もう!大人をからかわないで!」
赤くなりながら、エルザは黙って茶葉に向き直った。
昼過ぎ、カイルが来た。
いつもの奥の席に座って、いつものようにエルザを待った。
エルザはいつも通り「黄金霞」を淹れて、いつも通り運んだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
カイルはカップを受け取って、一口飲んだ。
「今日もおいしい」
「ありがとうございます」
それだけだった。
カイルは何も言わない。エルザに何も聞かない。あの日——アドルフが告白した日——も、翌日も、砂漠料理の店に行った後も、同じだった。いつも通りに来て、いつも通りに飲んで、いつも通りに帰る。
(聞こえていたのだろうか)
エルザにはわからなかった。確かめることも、できなかった。
カイルの横顔を、カウンターの内側からそっと見た。
穏やかな目で、カップを持っている。その目が今、何を考えているのか——一途に二十年間エルザを追いかけてきてくれた男が、今この瞬間何を思っているのか——エルザにはわからなかった。
(この人のことが、わからない)
不思議だと思った。あんなに近くにいるのに。あんなに話したのに。
わからない、ということが——怖いのか、それとも——
「エルザ」
カイルが言った。
「はい」
「今日のお茶、いつもより少し蒸らしが長いですね」
エルザは自分のミスに気づいた。
「……そうですよね、すみません」
「いいえ」カイルは言った。「深みが出ておいしかったです」
そう言って、また静かにカップに口をつけた。
エルザは帳面を開いた。今日の記録を書こうとして、ペンが止まった。
何を書けばいいのか、わからなかった。
閉店後、一人でカウンターを拭きながら、エルザは考えた。
幼馴染のアドルフのことを考えると——心が温かかった。あの通い道。あのお菓子屋の店主の顔。「毎朝待ってたんだから」という言葉。五歳の頃から、変わらず家族のように一緒にいてくれた。
カイルのことを考えると——胸が、少しざわついた。香辛料の匂いが残っている気がした。エルザの知らなかった世界を、見せてくれた人。
(どちらも、大切な人)
エルザはそう思った。どちらかが嫌な人だったら、楽だった。でも二人とも大切で、だから——
「先輩、帰りますよ」
ルーカスが声をかけてきた。
「ええ、すぐ行きます」
エルザは帳面を閉じた。今日の記録は、明日書こうと思った。




