21 砂漠の味がする
数日後、カイルが帝國カフェーの閉店後に言った。
「一度、俺の故郷の料理を食べてみませんか?」
エルザは少し驚いた。
「砂漠の料理を?」
「ええ。帝都に、新興連合系の店ができていて——その、かなり庶民的な店ですが」
「庶民的な店の何がいけないんですか?」
「いけなくはないんですが」カイルは少し間を置いた。「あなたが聖女だった頃のことを思うと、雰囲気が……かなり違うので」
「私は今、ただのバリスタです」
「……そうですね。では、行きましょうか」
その夜のカイルは、仕事終わりのスーツのままだった。
帝国風の仕立てのいい濃い色のスーツに、白いシャツ。砂漠の夜のような黒髪は短く整えられ、日に焼けた褐色の肌がシャツの白さと対照をなしている。長身に帝国式の装いを纏っていても、その立ち姿はどこか砂漠の民の空気を纏わせていた。隙のない、しかし堅苦しくない——独特の佇まいだった。
エルザは仕事上がりの白いエプロンを外し、カイルに渡された黒いドレスに着替えた。プラチナブロンドの髪をおろし、チェリーのように赤いグロスをつけた。エルザの薄いグレーの瞳が、夜の帝都の灯りを静かに映していた。
「黒のドレス、よく似合ってる。綺麗だ」
「ありがとう」
馬車の中の会話はこれだけだった。
デートとして、二人でレストランへ行くのは初めてだったから、エルザもカイルも緊張していた。
帝都の東区に、新興連合の商人たちが集まる一角がある。
十年前はなかった区画だ。工業化とともに帝都に流入してきた連合の人々が住むようになって、自然と食堂や雑貨屋が増えた。帝国の石畳の上に、連合式の派手な色の看板が並んでいる。赤や橙や黄色の布が軒先に揺れ、帝国の重厚な石造りの建物とのちぐはぐさが、かえって活気を生んでいた。どこからか香辛料の香りが漂ってくる。帝都の中に、別の国が紛れ込んだような景色だった。
「ここです」カイルが立ち止まった。
看板には連合の文字で何か書いてあった。エルザには読めない。扉の隙間から、複雑でむせかえるような香りが漂ってきた。香辛料の、深く重なった香りだ。帝國カフェーの繊細な茶葉の香りとはまるで違う——もっと野性的で、力強い匂いだった。
「……私が入って大丈夫ですか?」
「もちろんです。ただ」
「ただ?」
「辛いものは大丈夫ですか?」
「……どのくらい辛いですか?」
「そうですね……砂漠では一般的な辛さです」
エルザは少し覚悟を決めた。
「行きましょう」
店に入った瞬間、エルザは思わず足を止めた。
広くはない店内に、木製のテーブルがひしめいている。壁には連合の色鮮やかな布が飾られ、天井から香辛料の束が吊り下がっている。客のほとんどが新興連合の人々で、大きな声で笑いながら食べている。カウンターの向こうでは大きな鍋がいくつも火にかかっていて、湯気と香辛料の香りが渾然一体となって店内を満たしていた。帝國カフェーの静かな空気とは、何もかもが違った。
それから、全員がカイルを見た。
「カイル!」
店主らしき大柄な男が、カウンターの向こうから怒鳴るように言った。褐色の肌に豊かな黒髭、日焼けした大きな手。連合の言葉だったが、親しみが滲んでいた。
「久しぶりです」カイルが答えた。それから、エルザを紹介しようとして——
店内が、ざわめいた。
「あれが……」「帝国の……」「カイルが……」
連合語と帝国語が混じった囁きが飛び交った。エルザは少し背筋を伸ばした。淡いプラチナブロンドの髪と白磁の肌は、この店の中では明らかに浮いていた。
「……有名なんですか?私」
「少し」カイルは静かに言った。「連合の人間の間では——俺が、ずいぶん長い間、帝国の令嬢を探していたというのが」
「探していた?」
「……まあ、そういう噂が」
「カイルさん」
「はい」
「砂漠の商人が二十年間初恋の人を探し続けた話が、連合中に広まっているということですか」
「……広まっているとまでは」
「広まっているんですね」
「……席に座りましょうか」
カイルが先に歩き出した。店内の視線を全部引き受けながら、涼しい顔で。琥珀色の瞳は周囲のざわめきをまったく気にしていない様子だった。エルザはその後ろを歩きながら、少し笑いをこらえた。
席に着くと、料理が次々と運ばれてきた。カイルが何も頼んでいないのに。
「おまかせですか?」
「ここは顔馴染みの店なので。おまかせと言っても、ここは何を食べても美味しいんですよ」
最初に来たのは、薄いパンと黄色いペーストだった。焼きたてらしく、湯気が立っている。
「まずこれからどうぞ。故郷のパンです」
エルザは一口食べた。
「……これは、大丈夫ですね。香ばしくて」
「よかった。次は」
次に来たのは、深い赤色の煮込みだった。見るからに辛そうな色をしている。湯気の中に、むせかえるような香辛料の香りが立ち上った。
一口食べた瞬間、エルザは口を押さえた。
「……辛い」
「砂漠の一般的な辛さです。やっぱり辛いでしょうか?」
「ええ。とても辛いです」エルザは水を飲んだ。「でも、やめられない」
「それが砂漠の料理です」カイルは言った。「辛くて、でも手が止まらない」
エルザはもう一口食べた。確かに、手が止まらなかった。
食べながら、カイルが話した。
母がよく作っていた料理のこと。砂漠の村では香辛料が貴重で、祭りの日にだけ使えたこと。帝都に来て初めて食べたパンが、なぜかひどく甘く感じたこと。
カイルが、珍しく饒舌だった。琥珀色の瞳が、いつもより少し柔らかく見えた。帝國カフェーで向かいに座っているときとは違う顔だった。ここでは、カイルはただの「カイル」だった。
エルザはそれを聞きながら、思った。
(カイルさんは今、私に自分の世界を見せてくれているのかしら)
カイルが生きてきた世界。砂漠の村の香りと味。母の作った料理。
それを今、向かいに座って話してくれている。
「カイルさん」
「はい」
「これ、今度作り方教えていただけますか?」
カイルが少し目を細めた。
「いいですよ」
「帝国のお茶の淹れ方と、交換にしましょうか」
「それは——いい取引ですね」
そう言ってカイルが笑った。この店の中では、いつもより少し力が抜けた笑い方だった。褐色の肌と白い歯のコントラストが、温かい灯りの中で鮮やかだった。
料理が一段落して、カイルがお茶を頼んだ。砂漠式の、スパイスの入った甘いお茶だ。
小さな陶器のカップに注がれて運ばれてきた。帝國カフェーの白磁のカップとは全く違う、素朴で丸みのある形だ。茶液は深い琥珀色で、スパイスの甘い香りが漂っている。
エルザが受け取って、一口飲んだ。
「……甘い。でも、温かくてスパイスのいい香りがしますね」
「砂漠のお茶です。疲れたときに飲むんです」
「おいしいですね」エルザは言った。「また飲みたいです」
「もちろんです」カイルは言った。「そういえば、一つ、聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「バリスタの仕事は、好きですか?」
エルザは少し考えた。
「好きです」と答えた。「最初は、生きるためだと思っていたんです。でも今は——お客さんの顔を見て、この人には今日何が必要かを考えながら淹れるのが、好きになっていました」
「なぜ好きになったと思いますか?」
「……聖女だった頃は、私は魔力を与える側でした。帝国の聖女は、魔力を人に注ぐ役割をしていたんです。魔力の使える人に魔力を渡して、その人はその魔力で魔道具を作ったり、病気を治したり、光を灯したり、水を出したり、色んなことに魔力は使われていました。」
「私が聖女だった時、恥ずかしいことに、一方的に与えるだけで、相手のことを本当に見ていなかったと思います。バリスタになって、初めて——向かいにいる人を、ちゃんと見るようになってから気がついたんです」
カイルはしばらく、エルザを見ていた。
「エルザのそういうとこ、好きです」と彼は言った。
「えっと……何が、ですか?」
「今あなたが言ったこと——気づいて、変わって、しかも、それを言葉にできるところが。そして、エルザはどんどんいい方向に変わっていて、すごく素敵です」
「そう、ですか?」
エルザは少し首を傾けた。
「石段で会ったとき、あなたは傲慢だったかもしれない」カイルは続けた。「エルザ自身も気づいていなかったくらい、自然に。それは環境のせいでもあったと思います。恵まれたあなたの環境。でも今のあなたは、違う。あのとき私が受け取ったお茶と、今あなたが淹れるお茶は——同じ茶葉でも、全然違う。飲んでいると、ちゃんと自分のために淹れてくれたとわかる。そういうお茶を淹れられる人間に、あなたはなった」
「……それは」エルザは少し俯いた。「昔の私が傲慢だったという話ですよね?すみませんでした。本当に」
「半分だけです」カイルは言った。「もう半分は——それに気づいて、変わり続けたという話です。魔力が枯れて、婚約を破棄されて、屋敷を売って、お父様の世話をしながらお茶の本を読んで。そういう時間を、あなたは自分の力で歩いてきた。俺はそこが——」
少し間があった。
「——好きです」
エルザは顔を上げた。カイルはまっすぐエルザを見ていた。琥珀色の瞳が、店内の温かい灯りを受けて静かに輝いていた。
「石段で出会った綺麗な少女のことは、ずっと忘れられなかった。それは本当です」カイルは続けた。「でも俺が今ここに来ているのは、あのときの少女に会いに来ているわけじゃない。今のあなたに会いに来ています。白いエプロンをつけて、お客の顔を見て、丁寧にお茶を淹れているあなたに」
「……昔の私への憧れじゃないんですか?」エルザは静かに言った。「聖女だったとか、帝国の令嬢だったとか、そういうものへの」
「違います」カイルははっきりと言った。「帝国の令嬢なら、他にもいるでしょう。俺が会いに来たのは——あのとき石段で立ち止まって、飲みかけのお茶を差し出したあなたで、そこから二十年かけて変わり続けた、今のあなたです」
エルザはしばらく、何も言えなかった。
目が熱くなった。この場所で泣くのはおかしい、と思った。香辛料のせいにしようかと思った。
「……カイルさんは」とエルザはようやく言った。「ストレートですね」
「あなたの前では、はっきり伝えようって決めていますから」カイルは言った。
「ありがとうございます」エルザは言った。声が少し掠れた。「ちゃんと、届いています」
カイルは何も言わなかった。ただ、少し笑った。褐色の肌と白い歯のコントラストが、灯りの中で温かかった。
最後に運ばれてきたのは、デザートだった。
運ばれてきたのは、小さな茶色い菓子だった。見た目は素朴で可愛らしい。蜂蜜でも塗ってあるのか、表面がつやつやと光っている。
「これも美味しいですか?」エルザは一応確認した。
「美味しいです。そして、甘いです」
食べると、想像をはるかに超えた甘さが口の中に広がって、思わず「ん!?」という声が出てしまった。
「……カイルさん」
「はい」
「これは」
「砂漠の祭り菓子です。蜂蜜を三層に」
「三層も?」
「ええ」
「帝国のお菓子の三倍は甘い気がします」
「砂漠では甘さが贅沢なので」
エルザはもう一口食べた。
「……やめられない」
「そうです」カイルは言った。「辛いのも甘いのも、砂漠のものはやめられなくなる」
エルザはカイルを見た。
カイルはまっすぐエルザを見ていた。琥珀色の瞳が、静かに、しかしはっきりとエルザを捉えていた。
その言葉が、料理の話だけではないとわかった。
エルザは黙って、もう一口食べた。
帰り道、夜の帝都を二人で歩いた。
東区の賑やかな灯りが遠くなるにつれ、帝都の石畳と石造りの建物が戻ってきた。昼間とは違う静けさの中に、街灯が明るく道を照らしている。
街灯から漏れるのは、かつての魔力灯が放っていた幻想的な色彩ではない。
石造りの建物を無機質に照らし出すのは、蒸気の圧力によって生み出される、明るい光だ。
エルザはまだ、口の中に香辛料の余韻を感じていた。体の芯がほんのり温かかった。
「また来ましょうね」とカイルが言った。
「ええ」エルザは答えた。「次は辛さに備えてきます」
「辛さに、備えられるんですか?」
「たぶん……備えられないですよね」
「そうですよね。聞いたことないです」カイルは言った。「少しずつ慣れていけば大丈夫ですよ」
エルザもカイルも笑いながら、ゆっくり歩いた。
夜風が、香辛料の残り香をかすかに運んでいった。
帝都の夜景の中で、カイルの黒髪が街灯の光を受けて静かに光っていた。エルザは正面を向いたまま、その横顔を少しだけ、見た。
香辛料のいい香りが、忘れられなかった。




