20 昔の道を、もう一度
休みの日に、アドルフから手紙が来た。
短い文だった。
「昔よく二人で歩いた道を、もう一度歩かないか?エルザの都合がよければ、午後にでも」
エルザはしばらく手紙を眺めた。それから、行くと返事を書いた。
その日の午後は、秋の入り口らしい柔らかな晴れだった。
帝都の石畳は午前中の雨でわずかに濡れていて、午後の日差しを受けてうっすらと光っていた。木の葉がまだ青いまま、端だけが少し黄色くなり始めている。風は涼しく、歩くにはちょうどいい気温だった。
エルザは薄いピンクのワンピースの上に、薄いグレーのウールのカーデガンを羽織って出た。仕立ては古いが、きれいに手入れしてある。淡いプラチナブロンドの髪は首筋でひとつに結い、いつもより少しだけていねいに整えた。化粧は薄めだけど、ピンクベージュの口紅をつけた。家を出る前に、鏡の前で一度だけ確認してから家を出た。
(久しぶりに、こういう気持ちになった)
何かを楽しみにしている気持ち、というのを、最近忘れていた。
待ち合わせは、ヴァイスベルク家の跡地の近くだった。
今はもう別の家が建っている。エルザはその前を通らないようにしていた。しかしアドルフは自然に「今日はこっちから行こう」と言って、別の道を選んでくれた。
気づいていたのだ、と思った。アドルフはいつもエルザの気持ちに気づいて、気遣ってくれる。小さな時からずっとそうだった。
アドルフは私服だった。騎士団の制服ではなく、濃紺のシャツに落ち着いたグレーのジャケット。ゴールドの短髪が秋の陽光に明るく映えている。碧い瞳は休日のせいか、いつもより少し柔らかかった。高身長で堂々たる体格は変わらないが、今日は肩の力が抜けていて、エルザが知っている子どもの頃のアドルフに少し近かった。
「懐かしいな」とアドルフは言った。大通りを外れた路地に入りながら。「この道、毎日通ってたな」
「そうね」
「エルザはさ、約束の時間にいつも少し遅れてきてたよな。遠くから必死に走ってくるのが見えてさ。……息を切らして、髪もぐちゃぐちゃに乱して」
「……そんなこと覚えているの?」
「覚えてるよ」アドルフは笑った。目尻にシワが寄った。「毎朝エルザに会えるのを、楽しみに待ってたんだから」
エルザはふっと視線を彷徨わせ、柔らかな沈黙を紡いだ。
(毎朝、待たせてしまっていたのね)
(昔からアドルフを待たせてばかりいたんだわ)
路地の石畳は大通りより細く、建物の影が落ちて少し暗い。しかし子どもの頃に何百回と歩いた道だから、どこに段差があってどこに水たまりができやすいか、体が覚えていた。
そうこうしているうちに、二人は通った学校の前に来た。
石造りの古い建物だ。帝国式の重厚なアーチ型の入口に、蔦が少し這っている。今も同じ学校として使われていて、今日は休みだから誰もいない。静かな校庭に、風が通り抜けていく音だけが聞こえた。
アドルフが門のそばに立って、建物を見上げた。
「変わってないな」
「ええ」
「ここでエルザが算数の授業中に居眠りしてたよな〜」
「していないわ。確かに算数の授業は、好きじゃなかったけど」
「してた。俺が隣で起こしてやったじゃないか」
「……一度だけよ」
「いや、三回は起こした」
エルザは思わず笑った。アドルフも笑った。
門の前で、二人並んで建物を眺めた。少しの間、何も言わなかった。
秋の日差しが石造りの壁をゆっくりと照らしていた。長い影が二人の足元に伸びていて、それがほとんど同じ長さだった。
(ここにいたのだ、この人と)
エルザは思った。算数や言語や歴史の授業があって、帰り道があって、毎朝走ってきた自分がいて——その全部の場所に、アドルフがいた。人生の一部みたいに、ずっとそこにいた。
帰り道に、昔よく寄ったお菓子屋に入った。
大通りから少し入った場所にある小さな店だ。外壁は古びた黄土色で、ショーウィンドウに砂糖菓子がこんもりと並んでいる。帝国式の古い菓子屋で、帝国が没落しても値段が変わらず、エルザが今でも手が届く店だった。扉を開けると、砂糖と焼き菓子の甘い香りが広がった。
「まだあったのね」
「俺、たまに来てるよ」アドルフは言った。「なんとなく」
白髪交じりの店主の女性が奥から出てきて、二人の顔を見た。
「あら」と彼女は言った。「久しぶりね。二人で来るのは——ずいぶんになるわね」
「ご無沙汰しています」エルザは言った。
「大人になったわねえ」店主は目を細めた。皺の深い、温かい顔だった。「坊ちゃんの方はいつも一人で来るから、てっきり喧嘩でもしたのかと思ってたよ」
アドルフが少し耳を赤くした。
「そうだったんですね。喧嘩してないですよ」
「そう?」店主は笑った。「まあ、仲良くね。はい、おまけ」
砂糖菓子をひとつ多く包んでくれた。
店を出て、二人で並んで歩きながら菓子を食べた。秋の風が、二人の間をゆっくりと通り過ぎていった。
「たまに来てたの?」とエルザは言った。
「うん」
「一人で?」
「……まあ」アドルフはどこか遠くを見た。「お前のことを思い出しながら、みたいな感じかな」
エルザは何も言えなかった。
砂糖菓子が、少し甘すぎた。
帰り道、並んで歩きながら、二人はいろんな話をした。
笑い話をした。昔の失敗談を掘り返した。アドルフが転んで制服を汚した話。エルザが剣術の授業で木剣を逆に持っていた話。どちらもよく覚えていた。
帝都の西区は、夕方になると人通りが少なくなる。石畳の上を、二人の足音だけが続いた。街路樹の影が長く伸びて、橙色の夕日が建物の角を染めていた。
沈黙が来ても、苦にならなかった。
黙って歩ける、というのは——そういう時間をたくさん過ごしてきた証拠なのだと、エルザは思った。話さなくていい沈黙を持てる相手が、世の中にどれほどいるだろうか。
「エルザ」
アパートの前まで来たとき、アドルフが言った。
夕日を受けたゴールドの髪が、橙色に染まっていた。碧い瞳が、エルザをまっすぐ見ていた。笑うでもなく、何かを言おうとするでもなく、ただそのまま。
「なあに?」
「また来ような」
それだけだった。プロポーズでも、答えを急かすことでもなかった。ただ、また来ような、と言った。
「ええ」
エルザは答えた。
その声が、自分でも不思議なほど柔らかかった。
アドルフが手を振って、来た道を戻っていった。長い影が石畳の上を引きずられながら、遠くなっていった。その背中を、エルザはしばらく見ていた。
(また来ような。また来ような、か)
胸の中で、その言葉がしばらく鳴っていた。
帝都の夕暮れが、橙色から少しずつ紫に変わっていった。エルザはそれを見ながら、アパートの扉の前で、もう少しだけ立っていた。




