19 アドルフという幼馴染
あの事件の三日後に、アドルフが帝國カフェーに来た。
エルザが出勤していることを確認すると、ほっとした顔をして、いつもの席に座った。
「いつも通り、銀露をよろしく」
「了解、美味しく淹れるね」
エルザは柔らかな手つきで急須を温め、繊細な銀色の茶葉に、静かに湯を注いだ。
立ち昇る清涼な湯気が彼女の頬を優しく撫で、茶碗の中に落ちる一滴一滴が、軽やかな音を立てる。
エルザは、透き通った淡い緑のー杯を、静かにアドルフの前に置いた。
カップを置くとき、アドルフが言った。
「エルザ、あんな事件の後だけど、調子はどう?ご飯食べれてるか?」
「ありがとう、大丈夫よ」
「あんまり無理するなよ。エルザは昔から、頑張り屋さんだからなぁ」
「うん、ありがとう。でも、本当に大丈夫なの」
アドルフは頷いた。そしてお茶を飲んで、少し遠い目をした。「やっぱり……うまいな」
「ありがとう。アドルフのために、想いを込めて淹れたから、美味しくて当然よ」
しばらく沈黙があった。店内に満ちた芳醇な茶の香りが、二人の間の時間をゆっくりと止めていくようだった。
「アドルフ」とエルザは伏せていた視線をゆっくりと上げ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。「聞いてもいい?」
「なんだ?」
「どうして、私に振られ続けても、ずっとアタックしてくれていたの?そのせいでアドルフ、30過ぎても婚約者さえいないじゃない?」
アドルフは少し目を見開いた。それから、苦笑した。
「突然だな」
「ずっと聞けなかったの。でも今日、聞いておこうと思って」
アドルフはカップを両手で包んで、少し考えた。
「エルザはさ」と彼は言った。「俺が五歳のとき、枝で遊んでいて指を切ったのに、泣かなかっただろう?血が出ていたのに」
「……覚えているの?そんなこと。泣いたとか、泣かなかったとか」
「俺が謝ったら、気にしないでいいのよ、って笑った。五歳の女の子が、そんなことを言うか?普通?」
「たいした傷じゃなかったもの」
「俺にはたいした傷だった。だって血が出てたし」アドルフは言った。「気にしないでって、俺のせいにしないでくれた。それがずっと、頭に残ってた」
「それだけで?」
「それだけなわけないだろ」アドルフは窓の外を見た。
「エルザはさ、人のせいにしないじゃん。特に、歳をとるにつれて、どんどんそうなったと思う。この前もさ、婚約破棄されたことを、クラウスを悪く言わずに、自分の鈍さを責めてたし。それに、俺に金を借りることを断ったとき、エルザは『自分の手で立ちたい』と言ったよな。かっこいいと思ったんだ。そういうところが——ずっと、好きだった」
「それに、エルザは歳をとるにつれ家は没落したけど、人として成長してどんどんいい女になっていてる」
「エルザはさ、どんな環境でもどんどん成長して、いい方向に変われる才能がある。そんなところに、俺は今も昔も憧れてるんだ」
「アドルフ」
「俺さ、わかってたよ」アドルフは静かに言った。「どんなに頑張っても、振りむいてもらえないってこと。最初から、薄々。でも、告白を続けたのは——エルザのそばにいたかったから、かな。」
「……馬鹿ね」
「そうだな」アドルフは笑った。「馬鹿かもな、俺は。でも後悔はない。エルザのそばにいた時間は、全部よかったよ。俺の青春だった」
エルザは少し俯いた。
「ごめんなさい」エルザは小さな声で言った。「ずっと、ちゃんと向き合わなくて」
「向き合ってくれてたよ」アドルフは言った。「毎回、ちゃんと断ってくれた。それだけで充分だ」
「充分じゃないわ」
「充分だ」アドルフはにっこりした。「エルザ。俺はお前に幸せになってほしい。本当に。あの砂漠育ちの男となら、なれると思う。あいつは——」彼は少し言葉を探した。「お前を見ている。お前の中にあるものを、ちゃんと見ている。俺よりもずっと」
「アドルフは」エルザは言った。「ちゃんと見ててくれたよ」
「見ていたけど、見えていたものが違った」アドルフは言った。「俺は幼馴染として、エルザを見ていた。あいつはエルザの全部を見てる気がする。そういうことかもな。わかんねーけど」
エルザはしばらく黙った。
「私ね、ずっとアドルフに嫉妬してたんだと思う。私の魔力が枯れて、家が没落して貧乏になっていく間、あなたはどんどん騎士団で活躍して、今は騎士団長にまでなってたから。」
「幼馴染として一緒に育ったのに、あなただけが世界に必要とされているように感じてた時期があるの。どんどん落ちぶれていくことを私が気にしてるって、アドルフに思われたくなくてずっと必死だったわ。本当の私は、アドルフが思ってるよりも、意地っ張りだし弱いのよ。こうしてバリスタとして人生を再スタートさせた今だからこそ、言える話なんだけどね」
「……アドルフは、いつか、いい人に会えるわ。だから私のことはもう、忘れて欲しいの」
「本当のこと、話してくれてありがとう。気づいてやれなくて、本当にごめん。」
「……あのさ……実は両親から、もうそろそろちゃんとお見合いをしなさいって言われてるんだ」
「そう……なんだ……えっと、いい人に出会えるといいね」
エルザは、視線を自分の足元へ落とした。
「アドルフは本当に素敵な人だから」
「エルザに言われると、照れるな。ありがとう」アドルフは笑った。
コホン、とアドルフは咳払いをして、急に真面目な表情になった。
「エルザ、こんなこと言うのダメだってわかってるんだけど」
「最後にもう一回だけ、俺との未来を真剣に考えてくれないか?」
「愛してるんだ。エルザのこと。」
「これでダメだったら、俺もちゃんと向き合ってお見合いする」
「だから、最後にけじめをつけさせてくれ」
エルザは目を伏せ、「……わかったわ」と静かに頷いた。
二人は少しの間、言葉を交わさなかった。
カイルが手元のカップをゆっくりと傾ける傍らで、エルザはゆっくりと次の仕事に取り掛かっていた。
今日のアドルフの銀露は、少し深めに蒸らした、どこか重くて、温かい一杯だった。




