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没落聖女の逆転再出発~一杯のお茶を施した少年が砂塵の王となって、二十年後、私を迎えにきました〜  作者: 風谷 華
第一章

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18 夜の帝都で

 リヒテンハイン家の屋敷を出たところで、アドルフが待っていた。


 エルザを見て、ほっとした顔をした。それから、目が赤くなった。


「エルザぁぁ!!心配したよぉ!!怪我はないか?エルザに何かあったら、俺は、俺はっっ」


「もう、大袈裟ねえ。大丈夫よ。ほらっ」エルザはその場で軽やかに、くるりと一周まわってみせた。


「よかった。エルザが無事で、本当によかった」アドルフは深く息を吐いた。「……エルザ、手紙を読めなくて本当に申し訳なかった。俺のせいで、エルザが危険な目に遭ってしまった。ごめんよぉぉぉ」


「アドルフのせいじゃないわ」


「俺は馬鹿野郎もんだ!でも——よかった、本当に」


「アドルフも、助けに来てくれてありがとね」


 アドルフは照れくさそうに、こくりと頷いた。


 それから、アドルフはカイルを見た。無言で少し頷いた。カイルも無言で頷き返した。


「クラウスは今、俺の部下が抑えている」アドルフは言った。「東方の教団員二名もだ。リヒテンハイン家は——終わりだ」


「ゲルハルト卿は?」エルザは言った。「巻き込まれていない?怪我してない?」


「大丈夫だ。事情を説明したら驚いていたが——お前が無事だとわかって、安堵していたよ」


 エルザはほっとした顔をした。



「そうだ、エルザ。お腹すいたろ?これ、エルザの好きなカヌレ持ってきたから。」


「アドルフ、私がカヌレ好きなこと、覚えててくれたんだ。ありがとう。あとでゆっくり食べるね」

 そう言いながらも、エルザは我慢できずに包みを開いた。香ばしく焼き上げられた褐色の表面を、指先で愛おしそうになぞる。


「わ。こんな時でも、カヌレは美味しい!」


 パクリと大胆に齧りついたエルザの頬が、ラム酒とバニラの甘い香りに緩んだ。暗い物置に閉じ込められていた記憶を、その一口が少しずつ上書きしていく。


「エルザの笑顔みれて、よかった。無理せず、早く帰って休めよ。俺はまだ騎士団の仕事があるから。じゃあな」


 アドルフは照れ隠しに鼻の頭を擦ると、背を向けた。大きく上げた右手を左右に振り、遠ざかる足音さえもどこか弾んでいるように聞こえる。


 エルザはその背中が見えなくなるまで見送り、小さく呟いた。


「ありがとう」と。




 カイルはエルザを馬車に乗せた。


 ムギが引く馬車だ。


「ムギです」とカイルは言った。


「あの、散歩好きな?」エルザは少し笑った。


「この子、馬車も引けるんですね」


「もちろんです」

「馬ですから」

「ダンスも踊れますよ」


「じゃあ今度三人で踊りましょうね。ムギのダンスって、想像つかないですけどね」


 エルザはまた笑った。今夜一番の笑いだった。



「カイルさん」明るくなってきた帝都を眺めながら、エルザは言った。


「はい」


「来てくれると、信じていました」


「信じてくれていたんですか?嬉しいです」


「はい、信じていました」エルザは膝の上の手を見た。「あの部屋の中で、怖くて、何もできなくて。でも——カイルさんなら来てくれると思ったんです。なぜかわからないけれど、確信していました」


「なぜですか?」


「カイルさんだからです」と彼女は言った。


 カイルは少しの間、黙っていた。


「まあ、来ない理由が、ないですよね。エルザのためなら、なんでもしますから」


「ありがとうございます。嬉しいです」


 馬車が、橙色の街灯の並ぶ明け方の道を進んだ。


「エルザ」


「はい」


「一つ、聞いてもいいですか?」


「何でしょう?」


「なぜ、リヒテンハイン公爵家の屋敷へ一人で行ってしまったんですか?」


 エルザは少し黙った。


「……父に夕食会でゲルハルト卿に会ってきて欲しいって、言われたんです。それと」


「それと?」


「カイルさんに心配をかけたくなかったんです」エルザは正直に言った。「まだ証拠もないのに、という気持ちもあって。でも本当は——」


「本当は」


「頼ることが、まだ怖かったんだと思います」エルザは言った。「ずっと聖女として施す側でいたから。自分が困ったとき、誰かに頼っていいのかどうか、まだわからなくて」


「今夜」とカイルは言った。「俺の手を取ってくれて、よかった」


「ありがとうございます。すぐに、カイルさんの手を取りました」


躊躇(ためら)いませんでしたね」


「……ええ」エルザは少し驚いたように言った。「そうですね。躊躇(ためら)わなかったと思います」


「それで充分です」カイルは言った。「少しずつ、でいいんですよ」


 街灯の淡い光を透かして静かな凪のように佇むカイルの横顔を、エルザはその穏やかな呼吸の刻みが自分の鼓動を整えていくのを感じながら、ただじっと見つめていた。



「カイルさんは」と彼女は言った。「なぜ、そんなに待てるんですか?あっ、変なこと聞いてごめんなさい」


「砂漠で育つと、待つことを覚えます」カイルは言った。「水は一日待っても来ない。雨季は三ヶ月待って、やっと来る。待てない人間は、砂漠では生きていけない」


「砂漠は過酷ですもんね」


「それと——」カイルは続けた。「あなたを急がせて、壊したくない。あなたは今、たくさんのものを手放して、たくさんのものを拾い直している途中です。その時間を、俺が奪う権利はないですから」


「でも」エルザは言った。「カイルさんにも、時間があります。ずっと待たせるわけには」


「俺は待つと決めています」カイルは言った。「自分で決めたことは、貫く性格なんです」


 エルザはしばらく黙った。


「……崇高ですね」


「崇高ではないですよ」カイルは少し笑った。「ただの意地です」


「意地?」


「諦めたら負けだと、砂漠で習いました」


「誰に?」


「母から教わりました。間違いを認められて、口うるさい、あの母から」


 エルザは声を立てて笑った。今夜、二番目に大きな笑いだった。



 アパートの前に着いた。カイルも降りた。


「送ってくれてありがとうございます」とエルザは言った。


「今は一人にさせたくありません」


「私は一人でも大丈夫ですよ」


「それに、婚約者でもない男性を夜家に招くほど、私を軽い女だとお思いですか?」


「すみません。でも、心配で。せめて扉の前まで、ついて行かせてください」


 エルザは少し考えて、頷いた。


 アパートの入口の前に、ジャカランダの木があった。紫の房がたわわに揺れていた。昼間ならばさぞ鮮やかだろうと思いながら、カイルは一歩踏み出した。


 そのとき。


 右の脇腹に、鋭い痛みが走った。


(あ)


 息を止めた。廊下で壁に叩きつけられたとき——あの衝撃が、ここにきた。深呼吸しようとして、できなかった。肺が、うまく膨らまない。


「カイルさん?」


 エルザが振り返った。


 カイルはジャカランダの根元に、静かに膝をついていた。倒れたわけではない。ただ——立っていられなかった。


「す、みません」声が、思ったより細かった。「くっ、少しだけ……」


「カイルさん!」


 エルザが駆け寄ってきた。


「どこか、怪我をしていますか?」


「いいえ」とカイルは言った。「疲れただけです」


 嘘ではなかった。疲れてもいた。ただ、それだけではなかった。右脇腹と胸の奥で、呼吸のたびに何かが軋む。肋骨が、何本か——。


(エルザには、言わなくていい)


 今夜、この人はすでに十分怖い思いをした。これ以上、心配させる必要はない。


「顔色が悪いですよ」エルザはしゃがんで、カイルの顔を覗き込んだ。「クラウス様と戦って、疲れていますよね」


「……そうかもしれません」


「無理しないでください」


 エルザは少し躊躇ってから、カイルの手を取った。さっきカイルがエルザの手を取ったように——今度はエルザが、カイルの手を両手でそっと包んだ。


「このまま、少しだけ」と彼女は言った。「大丈夫になるまで、ここにいさせてください」


 カイルは何も言わず、痛みを我慢していた。

 一度痛いと意識し始めると、なかなかその痛みに耐えて、立ち上がることができなかった。


 ジャカランダの木が、夜風にわずかに揺れた。紫の房が頭上でさざ波のように動いて——その奥の一輪が、ほんの一瞬だけ、淡く光ったように見えた。


 次の瞬間ーーほわんっと淡い紫の光が、いくつも(またた)いた。


(ん?気のせいか。痛みのせいで幻覚が見えたのか?)


 だが、そのとき。


 右脇腹と胸の軋みが——ふっと、消えた。


 カイルは恐る恐る、深呼吸してみた。


 できた。


 もう一度、ゆっくりと。肺が、ちゃんと膨らんだ。脇腹をそっと押さえてみる。痛みはある。しかしさっきまでの、何かが割れているような鋭さではない。


(折れていたわけではなかったのか)


 激しい戦いの後の、筋肉の痛みだったのかもしれない。疲労が、一瞬大きく感じさせただけだったのかもしれない。


「見苦しいところを見せてしまいましたね……すみませんでした」カイルはゆっくりと立ち上がった。「もう大丈夫です」


 エルザは手を離さなかった。


「本当に?」


「はい」カイルは言った。「本当に」


 エルザは少しの間、カイルの顔をじっと見ていた。それから、静かに手を離した。


「ならよかった」と彼女は言った。


 ジャカランダの木が、また風に揺れた。紫の花がひとつ、ゆっくりと足元に落ちた。




 カイルは少しの間、動かなかった。


 それから、ゆっくりと、エルザの右手を取った。薬指の傷跡の上に、そっと親指を置いた。


「……これは」と彼は言った。「何の傷ですか」


「幼馴染のアドルフと遊んでいたときの傷です。五歳頃の」


「痛かったですか?」


「たいしたことなかったと思います。もう覚えていないくらいです」


「エルザは小さな頃から、強かったんですね」カイルはその傷跡を見ながら言った。「俺は——あなたの手が、傷ついていたら嫌だと思った。エルザに痛い思いをしてほしくない。そのくらい、あなたのことを大切に思っています」


「カイルさん」


「エルザ」カイルは顔を上げた。


「もはや、言葉にするまでもないことかもしれません。……俺はあなたを愛しています。俺と真剣に、お付き合いしてくレませんか?」

「石段で会ったときから。ずっと、好きでした。でも、返事は今でなくていいです」


 エルザは少し、笑った。


「ありがとうございます。でも、そんなに待たせないと思います」


 カイルが、今まで見た中で、一番、力の抜けた笑顔を見せた。


「わかりました」と彼は言った。


「おやすみなさい、カイルさん」


「おやすみなさい、エルザ」


 扉が閉まった。




 カイルは階段を降りた。ムギの手綱を持って、馬車には乗らず、夜の帝都をゆっくり歩いた。


 街灯の淡い光が消えかかる、群青色の明け方だった。横を歩く者は誰もいない。ただ、ムギの刻む(ひづめ)の音と、自身の規則正しい鼓動だけが響き合う静寂が、そこにはあった。

 これまでのどんな喧騒よりも深く、澄み渡るような冷気の中でさえ、カイルの胸には消えることのない確かな熱が、静かに、けれど激しく脈打っていた。

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