17 リヒテンハイン家へ(カイル視点)
カイルが異変に気づいたのは、その夜のうちだった。
エルザが帝國カフェーを出た後、護衛として遠巻きにつけていたセドリックの部下から、短い報告が入った。
「エルザ嬢が、リヒテンハイン家の屋敷に入りました。西区の本邸です」
カイルは一瞬、黙った。
「……いつだ?」
「夕刻です。まだ、出てきていません」
時計を見た。夜の九時を過ぎていた。
(夕食会なら、もう終わっている時間だ)
「引き続き監視しろ。エルザが出てきたらすぐ知らせろ」
しかし午前零時を過ぎても、エルザは出てこなかった。
カイルはセドリックを呼んだ。
「教団との接触の件、最新情報は?」
「今夜、少し動きがありましたぞ」セドリックは報告書を手に、白い髭を撫でながら声を落とした。「東方からの使者と思われる人物が、西区のリヒテンハイン本邸に入ったのが確認されています。二名ですね」
「エルザも、中にいるのか?」
「はい、いらっしゃいます」
「まだいるんだな?」
「はい」
カイルは立ち上がった。
「剣を持て。傭兵部下を四人呼べ。馬車を用意しろ」
「代表、非常に危険です。私が行きますので、代表はこちらでお待ちください」
「セドリック!」
カイルは振り返った。
「案内しろ!今すぐ!俺がエルザを助け出す!」
その目を見て、セドリックは黙って頷いた。
「愛、ですね。いいでしょう。案内いたしましょう」
カイルはもう一人に連絡を入れた。
「アドルフ殿、夜分に申し訳ない——」
「どうしました?」アドルフの声は、すでに起きていた。任務から戻ったばかりらしく、少し掠れていた。「まさか、エルザに何かあったのか?」
「ああ。実はリヒテンハイン家に入ったまま出てこない。教団の件も——」
「俺も実はその件で、動いていた」アドルフは言った。「しかもエルザから手紙が来ていた。行っていいか確認したいという内容だったが、任務中で読めなかった。それで——クソ、俺のせいだ」
「私は今から西区に向かいます」
「俺も、一緒に行きます。騎士として正式に動きましょう。リヒテンハイン公爵を押さえる権限は俺にあるので」
「助かります」
「礼はいい」アドルフは言った。「ただ——エルザを絶対に助け出しましょう」
一瞬の沈黙があった。
「必ず」とカイルは言った。「助け出しましょう」
リヒテンハイン公爵邸の裏手は、表の虚飾が嘘のように荒廃していた。
黒ずんだ石壁は崩れかけ、干からびた噴水の傍らでは、首の折れた石像が闇に沈んでいる。
しかし、放置されたはずの通用口からは不自然な灯りが漏れ、湿った夜気を震わせていた。
カイルは外周を確認した。出入口は三つ。見張りは二人。思ったより少ない。
(クラウスは、誰かが動くとは思っていない。高をくくっているだろう)
「裏口から入る。音を立てるな。アドルフ殿の部隊は表口を抑えてくれ」
アドルフが低く頷くと、騎士たちは影のように音もなく散った。
カイルが裏口へ辿り着き、錠の状態を素早く検分する。
帝国製の旧式だ。背後でセドリックが迷いなく道具を差し込み、わずかな金属音を立てた。
――三十秒後。
抵抗を止めた錠が小さく鳴り、一行は吸い込まれるように廊下へと足を踏み入れた。
「手分けして探す。……必ずエルザを見つけ出すんだ」
カイルの低い号令とともに、セドリックたちは弾かれたように散った。
足音を消し、それぞれの影が澱んだ空気の奥へと吸い込まれていく。
子どもの頃、砂漠を歩いていたときのように、音を消した。砂の上を歩くとき、重心の乗せ方がある。石造りの廊下でも、同じことができる。
角を曲がった先、煌々と明かりが漏れる一室から、複数の下卑た笑い声が聞こえてきた。
カイルは背後から響く笑い声を切り捨て、逆方向へと足を進めた。
右に折れた廊下の突き当たり。
そこには、塗り込められた影に沈むようにして、不自然に孤立した小さな扉があった。
誘われるようにノブを掴み、回そうとする。
――動かない。
鉄の芯が噛み合ったような硬い手応え。厳重な施錠が、かえってそこに隠された「何か」の存在を饒舌に物語っていた。
カイルはその前で足を止め、わずかに息を呑んだ。
「止まれ」
背後から、声がした。
振り返ると、
廊下の向こうに、クラウスが立っていた。右手に剣を持っていた。
「砂漠の商人殿」クラウスは言った。「随分と大胆な訪問だな。帝国の公爵家の屋敷に、不法侵入とは」
「エルザ嬢がいる」カイルは静かに言った。「返してもらいに来た」
「エルザ嬢は自らの意志でここにいる。私は何もしていない」
「そんなわけありません。明日もカフェーに出勤予定なのに、こんな時間にここにいるわけがありません。エルザ嬢を返してください」
クラウスの目が、わずかに揺れた。それから、剣先を向けた。
「邪魔をするなら、相手になろう」彼は言った。「だがその前に、一つ聞かせてくれ。お前は——何者なんだ?」
「ドゥラン商会の代表です。ご存知のはずですが」
「そういう意味じゃない」クラウスは剣を構えたまま、カイルを上から下まで見た。
「砂漠の出身だな。新興連合の、あの貧しい南方の。親は何をしていた? 採掘場の労働者か? 洗濯女か?」
カイルは答えなかった。
「お前は属国の、それも最下層の出だろう。いわゆる砂漠の乞食」クラウスは続けた。声に、冷たい軽蔑が滲んだ。「どれだけ金を積んでも、血は変わらない。帝国の礎を作ってきた家柄の人間と、砂漠の田舎から出てきた成り上がりでは、根本が違う。そういう人間がエルザに近づくこと自体が——」
「クラウス様!辞めてください!」
廊下の奥の部屋の向こうから、叫ぶような声がした。
エルザの声だった。
扉の中で、エルザは壁に手をついてふらふらしながら、立ち上がっていた。
一晩中膝を抱えていたせいで、うまく力が入らない。それでも、立った。
扉の隙間に耳を当てていたから、廊下のやりとりはすべて聞こえていた。
クラウスの言葉が、聞こえていた。
砂漠の乞食。最下層の出。成り上がり。
そしてカイルが——何も言い返さないことも、聞こえていた。
(言い返さないのは、反論できないからじゃない)
エルザはわかっていた。カイルは今、自分を助けに来ている。言い合いに時間を使いたくないだけだ。
でも。
でも、それでいいのか。
あの言葉を、黙って聞いていていいのか。
「クラウス様!!」
もう一度、声を出した。今度は、もっと大きく。
「聞こえているのか?エルザ」クラウスは扉の方向を見もせずに言った。「大人しくしていろ。もうすぐ終わる」
「聞こえています」エルザは言った。「だから言います」
扉越しに、はっきりと。
「カイル・ドゥランは、帝国の誰よりも立派な人です」
廊下が静まった。
「十二歳でひとり帝都に出てきて、仕事をしながら字を覚えて、算術を覚えて、言葉を覚えた。誰かに与えられた土台の上に立ったのではなく、砂の上に、自分で一から積み上げた人です。私たちが生まれながらに持っていたもの——魔力、家柄、教育など——がなくても、努力で這い上がってきた人です」
声が、少し震えた。震えていても、続けた。
「あなたが『血が違う』と言うなら、そうかもしれない。でもその血の何が誇れるのか、私にはもうわかりません。帝国は、五百年かけて土地の魔力を使い果たした。カイルさんは、砂漠から這い上がってきた。どちらが尊いか——私には、答えが出ています」
扉の向こう側から、エルザの声だけが真っ直ぐに響き渡った。
――沈黙。
空虚な静寂が扉を隔てて流れる。
閉じ込められた闇の中から放たれた言葉は、外側に立ち尽くすカイルの鼓動を激しく打ち鳴らした。
「クラウス様」エルザは続けた。「あなたはカイルさんのことを『成り上がり』と言った。でも、あなたは今夜、私を物置部屋に鍵をかけて監禁し、私を売り飛ばそうとしている。どちらが、人として下なのか」
廊下の向こうで、何かが動く気配がした。
クラウスが、剣を構え直す音がした。
カイルは、扉を見ていた。
扉の向こうでエルザが、自分のためにクラウスに言い返してくれた。
閉じ込められたまま。長い間、恐怖に包まれていただろうに。それでも、声を上げていた。
(クラウスを刺激したら、エルザが危ないだろ。馬鹿な真似はやめてくれ)
そう思った。無謀だと思った。
でも——胸の中で、何かがとても大きく動いた。
「カイルさん、助けに来てくれて、ありがとう」
扉の向こうで、エルザが小さく言った。
カイルは前を向いた。
「……感傷的なやりとりだな」クラウスは言った。しかしその声には、さっきまでの余裕がなかった。「エルザがお前を庇っても、何も変わらない。お前は所詮——」
「もう充分です」カイルは言った。静かに、しかしはっきりと。「あなたが何を言おうと、俺は今夜エルザを連れて帰る。それだけです」
クラウスが踏み込んできた。
最初の一手は、カイルが受けた。
重かった。帝国貴族として幼少期から叩き込まれた剣術は、本物だった。素早く、正確で、無駄がない。二手目、三手目——クラウスの剣筋は鋭く、カイルは後退しながら受け流すしかなかった。
四手目、クラウスの剣が鋭く横薙ぎに来た。
カイルは間に合わなかった。剣で受けたが、弾かれた勢いで右の壁に背中から叩きつけられた。
鈍い音がした。
(痛い)
急いで体制を立て直す。砂漠育ちは痛みに慣れている。倒れたら終わりだということも、体が知っていた。
壁を蹴って、前に出た。
クラウスが剣を振り下ろしてくる——カイルは躱さず、懐に入った。剣の間合いの内側に。
クラウスが眉をひそめた。剣が使えない距離だ。
カイルの肘が、クラウスの脇腹に入った。
「——ッ」
クラウスが息を詰めた。体勢が崩れる。カイルはそのまま押し込んだ。二人がもつれながら廊下を転がった。
クラウスの護衛二人が動いた——が、セドリックと傭兵部下が即座に抑えた。廊下の奥で押さえ込む音がした。
カイルとクラウスが、廊下の床で距離を取って向き直った。
二人とも、息が上がっていた。
クラウスの上着が乱れていた。脇腹を押さえている。カイルの背中は壁にぶつかった衝撃で鈍く痛んでいたが、動くには問題なかった。
「……やるな」クラウスは言った。息を整えながら。「剣だけじゃない」
「砂漠では、使えるものは全部使います」
クラウスが剣を構え直した。カイルも剣を正面に戻した。
今度はクラウスが慎重だった。懐に入らせまいと、間合いを保ちながら剣先でじわじわと追い込んでくる。
廊下は狭い。後ろに下がれる距離が限られている。
三歩、四歩——カイルの背中が壁に近づいた。
(罠だ)
気づいた瞬間、クラウスが踏み込んできた。剣が上段から来る。
カイルは真横に跳んだ。
剣が、足元の豪華な織りの絨毯を叩いた。
絨毯の厚みが金属の悲鳴を圧殺し、代わりに「ボフッ」という地鳴りのような鈍い音が、静まり返った部屋に響く。
体勢を崩したクラウスの背中に、カイルが回り込んだ。剣の柄でクラウスの背を打った。重い手応えがあった。
「——くっ」
クラウスが膝をつきかけた。しかしすぐに振り返って、体当たりのように突っ込んできた。
二人がまた、もつれた。
壁に押しつけられ、クラウスの肘がカイルの顎をかすった。頭が揺れ、視界が一瞬白くなった。
(まずい)
カイルはクラウスの腕を掴んで、引き倒した。二人が床に転がった。
クラウスの剣が床に落ち、分厚い絨毯の上を滑った。
二人とも、立ち上がった。剣はクラウスの手元にない。カイルの剣は、まだある。
クラウスは荒い息をしながら、それでも構えを作った。素手で。
「……お前には関係ない話のはずだ」クラウスは言った。息が乱れていたが、声だけは絞り出した。「砂漠の商人が、帝国の内輪の問題に首を突っ込んで、何になる?」
「エルザを愛していますから」カイルは答えた。「それだけで、充分です」
クラウスが、一瞬止まった。
その顔に、初めて何かが揺れた。怒りでも軽蔑でもない——もっと複雑な何かが。
しかし次の瞬間、クラウスが素手のまま突っ込んできた。
カイルは剣を持ったまま躱した。使う気はなかった。傷つける必要はない、制圧すれば充分だ。
クラウスの拳がカイルの肩に当たった。重かった。さすが帝国の貴族として、剣の訓練を積んだ体だ。
カイルは受けた勢いを逃さず、クラウスの腕を取った。思いきり捻って、体重をかけた。
クラウスが床に伏せた。
カイルが上から押さえた。動けなくなったクラウスは、呻き声をあげていた。
廊下が、静かになった。
二人とも、荒い息をしていた。
「——ッ、離せ」
「動くな」カイルは静かに言った。「もう、終わりです」
クラウスが歯を食いしばった。それでも、体が動かなかった。
その瞬間。
「リヒテンハイン公爵!」
廊下の正面から、アドルフの声がした。
「帝国騎士団長アドルフ・ハルトマンとして通告する。東方聖典教団との共謀、および帝国市民の不法拘束の容疑で、あなたを拘束する」
騎士たちが廊下を埋めた。
クラウスは床に伏せたまま、しばらく動かなかった。
それから、諦めたように力が抜けた。
「……クソっ!後少しだったのに」
カイルは手を離した。立ち上がった。肩が痛かった。背中も痛かった。顎をかすめた箇所が、じんじんしていた。
それでも、エルザの監禁されているであろう部屋に走った。
カイルはクラウスをアドルフに任せて、振り返った。
鍵のかかった扉の前に立った。
セドリックが錠に手をかけるよりも早く、カイルは扉の木板を激しく叩いた。
「エルザ、扉から離れるんだ! 奥へ下がれ!」
彼女が身を引いた気配を鋭く察知するやいなや、カイルは右肩を何度も扉へと叩きつけた。
頑強に閉じられていた扉は、枠ごと無残に内側へとなぎ倒された。
小さな物置部屋に、エルザがいた。
壁に手をついて、立っていた。膝が震えているのが見えた。
怯えた表情のエルザと目が合った。
「……カイルさん」
エルザの声は、しっかりしていた。震えていなかった。でも、顔は白かった。一晩中ここにいて、大変だっただろうし、心細かっただろう。
「来ました」とカイルは言った。「遅くなって、すみません」
「遅くないです」エルザは言った。「ちゃんと、来てくれました」
カイルは一歩、近づいた。手を差し伸べた。
エルザはその手を、躊躇わずに取った。
「聞こえていましたか?」エルザは言った。「さっきの、私が言ったこと」
「ええ。聞こえていました」
「……恥ずかしいですね」
「いいえ」カイルは言った。「ありがとうございました」
エルザはうつむいた。
カイルは何も言わなかった。ただ、握った手に少しだけ力を込めた。
エルザも、同じ力で握り返した。




