表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
没落聖女の逆転再出発~一杯のお茶を施した少年が砂塵の王となって、二十年後、私を迎えにきました〜  作者: 風谷 華
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/29

17 リヒテンハイン家へ(カイル視点)

 カイルが異変に気づいたのは、その夜のうちだった。


 エルザが帝國カフェーを出た後、護衛として遠巻きにつけていたセドリックの部下から、短い報告が入った。


「エルザ嬢が、リヒテンハイン家の屋敷に入りました。西区の本邸です」


 カイルは一瞬、黙った。


「……いつだ?」


「夕刻です。まだ、出てきていません」


 時計を見た。夜の九時を過ぎていた。


(夕食会なら、もう終わっている時間だ)


「引き続き監視しろ。エルザが出てきたらすぐ知らせろ」


 しかし午前零時を過ぎても、エルザは出てこなかった。


 カイルはセドリックを呼んだ。


「教団との接触の件、最新情報は?」


「今夜、少し動きがありましたぞ」セドリックは報告書を手に、白い髭を撫でながら声を落とした。「東方からの使者と思われる人物が、西区のリヒテンハイン本邸に入ったのが確認されています。二名ですね」


「エルザも、中にいるのか?」


「はい、いらっしゃいます」


「まだいるんだな?」


「はい」


 カイルは立ち上がった。


「剣を持て。傭兵部下を四人呼べ。馬車を用意しろ」


「代表、非常に危険です。私が行きますので、代表はこちらでお待ちください」


「セドリック!」


 カイルは振り返った。


「案内しろ!今すぐ!俺がエルザを助け出す!」


 その目を見て、セドリックは黙って頷いた。


「愛、ですね。いいでしょう。案内いたしましょう」


 カイルはもう一人に連絡を入れた。


「アドルフ殿、夜分に申し訳ない——」


「どうしました?」アドルフの声は、すでに起きていた。任務から戻ったばかりらしく、少し(かす)れていた。「まさか、エルザに何かあったのか?」


「ああ。実はリヒテンハイン家に入ったまま出てこない。教団の件も——」


「俺も実はその件で、動いていた」アドルフは言った。「しかもエルザから手紙が来ていた。行っていいか確認したいという内容だったが、任務中で読めなかった。それで——クソ、俺のせいだ」


「私は今から西区に向かいます」


「俺も、一緒に行きます。騎士として正式に動きましょう。リヒテンハイン公爵を押さえる権限は俺にあるので」


「助かります」


「礼はいい」アドルフは言った。「ただ——エルザを絶対に助け出しましょう」


 一瞬の沈黙があった。


「必ず」とカイルは言った。「助け出しましょう」




 リヒテンハイン公爵邸の裏手は、表の虚飾が嘘のように荒廃していた。

 黒ずんだ石壁は崩れかけ、干からびた噴水の傍らでは、首の折れた石像が闇に沈んでいる。

 しかし、放置されたはずの通用口からは不自然な灯りが漏れ、湿った夜気を震わせていた。


 カイルは外周を確認した。出入口は三つ。見張りは二人。思ったより少ない。


(クラウスは、誰かが動くとは思っていない。高をくくっているだろう)


「裏口から入る。音を立てるな。アドルフ殿の部隊は表口を抑えてくれ」


 アドルフが低く頷くと、騎士たちは影のように音もなく散った。


 カイルが裏口へ辿り着き、錠の状態を素早く検分する。

 帝国製の旧式だ。背後でセドリックが迷いなく道具を差し込み、わずかな金属音を立てた。

 

 ――三十秒後。

 抵抗を止めた錠が小さく鳴り、一行は吸い込まれるように廊下へと足を踏み入れた。


 「手分けして探す。……必ずエルザを見つけ出すんだ」


 カイルの低い号令とともに、セドリックたちは弾かれたように散った。

 足音を消し、それぞれの影が澱んだ空気の奥へと吸い込まれていく。




 子どもの頃、砂漠を歩いていたときのように、音を消した。砂の上を歩くとき、重心の乗せ方がある。石造りの廊下でも、同じことができる。


 角を曲がった先、煌々と明かりが漏れる一室から、複数の下卑た笑い声が聞こえてきた。


 カイルは背後から響く笑い声を切り捨て、逆方向へと足を進めた。


 右に折れた廊下の突き当たり。

 そこには、塗り込められた影に沈むようにして、不自然に孤立した小さな扉があった。


 誘われるようにノブを掴み、回そうとする。


 ――動かない。


 鉄の芯が噛み合ったような硬い手応え。厳重な施錠が、かえってそこに隠された「何か」の存在を饒舌に物語っていた。


 カイルはその前で足を止め、わずかに息を呑んだ。




「止まれ」


 背後から、声がした。



 振り返ると、

 廊下の向こうに、クラウスが立っていた。右手に剣を持っていた。



「砂漠の商人殿」クラウスは言った。「随分と大胆な訪問だな。帝国の公爵家の屋敷に、不法侵入とは」


「エルザ嬢がいる」カイルは静かに言った。「返してもらいに来た」


「エルザ嬢は自らの意志でここにいる。私は何もしていない」


「そんなわけありません。明日もカフェーに出勤予定なのに、こんな時間にここにいるわけがありません。エルザ嬢を返してください」


 クラウスの目が、わずかに揺れた。それから、剣先を向けた。


「邪魔をするなら、相手になろう」彼は言った。「だがその前に、一つ聞かせてくれ。お前は——何者なんだ?」


「ドゥラン商会の代表です。ご存知のはずですが」


「そういう意味じゃない」クラウスは剣を構えたまま、カイルを上から下まで見た。

「砂漠の出身だな。新興連合の、あの貧しい南方の。親は何をしていた? 採掘場の労働者か? 洗濯女か?」


 カイルは答えなかった。


「お前は属国の、それも最下層の出だろう。いわゆる()()()()()」クラウスは続けた。声に、冷たい軽蔑が滲んだ。「どれだけ金を積んでも、血は変わらない。帝国の礎を作ってきた家柄の人間と、砂漠の田舎から出てきた成り上がりでは、根本が違う。そういう人間がエルザに近づくこと自体が——」


「クラウス様!辞めてください!」


 廊下の奥の部屋の向こうから、叫ぶような声がした。


 エルザの声だった。



 扉の中で、エルザは壁に手をついてふらふらしながら、立ち上がっていた。


 一晩中膝を抱えていたせいで、うまく力が入らない。それでも、立った。


 扉の隙間に耳を当てていたから、廊下のやりとりはすべて聞こえていた。


 クラウスの言葉が、聞こえていた。


 砂漠の乞食。最下層の出。成り上がり。


 そしてカイルが——何も言い返さないことも、聞こえていた。


(言い返さないのは、反論できないからじゃない)


 エルザはわかっていた。カイルは今、自分を助けに来ている。言い合いに時間を使いたくないだけだ。


 でも。


 でも、それでいいのか。


 あの言葉を、黙って聞いていていいのか。


「クラウス様!!」


 もう一度、声を出した。今度は、もっと大きく。


「聞こえているのか?エルザ」クラウスは扉の方向を見もせずに言った。「大人しくしていろ。もうすぐ終わる」


「聞こえています」エルザは言った。「だから言います」


 扉越しに、はっきりと。


「カイル・ドゥランは、帝国の誰よりも立派な人です」


 廊下が静まった。


「十二歳でひとり帝都に出てきて、仕事をしながら字を覚えて、算術を覚えて、言葉を覚えた。誰かに与えられた土台の上に立ったのではなく、砂の上に、自分で一から積み上げた人です。私たちが生まれながらに持っていたもの——魔力、家柄、教育など——がなくても、努力で這い上がってきた人です」


 声が、少し震えた。震えていても、続けた。


「あなたが『血が違う』と言うなら、そうかもしれない。でもその血の何が誇れるのか、私にはもうわかりません。帝国は、五百年かけて土地の魔力を使い果たした。カイルさんは、砂漠から這い上がってきた。どちらが尊いか——私には、答えが出ています」


 扉の向こう側から、エルザの声だけが真っ直ぐに響き渡った。


 ――沈黙。


 空虚な静寂が扉を隔てて流れる。

 閉じ込められた闇の中から放たれた言葉は、外側に立ち尽くすカイルの鼓動を激しく打ち鳴らした。


「クラウス様」エルザは続けた。「あなたはカイルさんのことを『成り上がり』と言った。でも、あなたは今夜、私を物置部屋に鍵をかけて監禁し、私を売り飛ばそうとしている。どちらが、人として下なのか」


 廊下の向こうで、何かが動く気配がした。


 クラウスが、剣を構え直す音がした。



 カイルは、扉を見ていた。


 扉の向こうでエルザが、自分のためにクラウスに言い返してくれた。


 閉じ込められたまま。長い間、恐怖に包まれていただろうに。それでも、声を上げていた。



(クラウスを刺激したら、エルザが危ないだろ。馬鹿な真似はやめてくれ)


 そう思った。無謀だと思った。


 でも——胸の中で、何かがとても大きく動いた。


「カイルさん、助けに来てくれて、ありがとう」


 扉の向こうで、エルザが小さく言った。


 カイルは前を向いた。




「……感傷的なやりとりだな」クラウスは言った。しかしその声には、さっきまでの余裕がなかった。「エルザがお前を庇っても、何も変わらない。お前は所詮——」


「もう充分です」カイルは言った。静かに、しかしはっきりと。「あなたが何を言おうと、俺は今夜エルザを連れて帰る。それだけです」


 クラウスが踏み込んできた。



 最初の一手は、カイルが受けた。


 重かった。帝国貴族として幼少期から叩き込まれた剣術は、本物だった。素早く、正確で、無駄がない。二手目、三手目——クラウスの剣筋は鋭く、カイルは後退しながら受け流すしかなかった。


 四手目、クラウスの剣が鋭く横薙(よこな)ぎに来た。


 カイルは間に合わなかった。剣で受けたが、弾かれた勢いで右の壁に背中から叩きつけられた。


 鈍い音がした。


(痛い)


 急いで体制を立て直す。砂漠育ちは痛みに慣れている。倒れたら終わりだということも、体が知っていた。


 壁を蹴って、前に出た。


 クラウスが剣を振り下ろしてくる——カイルは(かわ)さず、懐に入った。剣の間合いの内側に。


 クラウスが眉をひそめた。剣が使えない距離だ。


 カイルの肘が、クラウスの脇腹に入った。


「——ッ」


 クラウスが息を詰めた。体勢が崩れる。カイルはそのまま押し込んだ。二人がもつれながら廊下を転がった。


 クラウスの護衛二人が動いた——が、セドリックと傭兵部下が即座に抑えた。廊下の奥で押さえ込む音がした。


 カイルとクラウスが、廊下の床で距離を取って向き直った。



 二人とも、息が上がっていた。


 クラウスの上着が乱れていた。脇腹を押さえている。カイルの背中は壁にぶつかった衝撃で鈍く痛んでいたが、動くには問題なかった。


「……やるな」クラウスは言った。息を整えながら。「剣だけじゃない」


「砂漠では、使えるものは全部使います」


 クラウスが剣を構え直した。カイルも剣を正面に戻した。


 今度はクラウスが慎重だった。懐に入らせまいと、間合いを保ちながら剣先でじわじわと追い込んでくる。


 廊下は狭い。後ろに下がれる距離が限られている。


 三歩、四歩——カイルの背中が壁に近づいた。


(罠だ)


 気づいた瞬間、クラウスが踏み込んできた。剣が上段から来る。


 カイルは真横に跳んだ。

 剣が、足元の豪華な織りの絨毯を叩いた。

 絨毯の厚みが金属の悲鳴を圧殺し、代わりに「ボフッ」という地鳴りのような鈍い音が、静まり返った部屋に響く。


 体勢を崩したクラウスの背中に、カイルが回り込んだ。剣の柄でクラウスの背を打った。重い手応えがあった。


「——くっ」


 クラウスが膝をつきかけた。しかしすぐに振り返って、体当たりのように突っ込んできた。


 二人がまた、もつれた。


 壁に押しつけられ、クラウスの肘がカイルの顎をかすった。頭が揺れ、視界が一瞬白くなった。


(まずい)


 カイルはクラウスの腕を掴んで、引き倒した。二人が床に転がった。


 クラウスの剣が床に落ち、分厚い絨毯の上を滑った。

 

 二人とも、立ち上がった。剣はクラウスの手元にない。カイルの剣は、まだある。


 クラウスは荒い息をしながら、それでも構えを作った。素手で。



「……お前には関係ない話のはずだ」クラウスは言った。息が乱れていたが、声だけは絞り出した。「砂漠の商人が、帝国の内輪の問題に首を突っ込んで、何になる?」


「エルザを愛していますから」カイルは答えた。「それだけで、充分です」


 クラウスが、一瞬止まった。


 その顔に、初めて何かが揺れた。怒りでも軽蔑でもない——もっと複雑な何かが。


 しかし次の瞬間、クラウスが素手のまま突っ込んできた。


 カイルは剣を持ったまま(かわ)した。使う気はなかった。傷つける必要はない、制圧すれば充分だ。


 クラウスの拳がカイルの肩に当たった。重かった。さすが帝国の貴族として、剣の訓練を積んだ体だ。


 カイルは受けた勢いを逃さず、クラウスの腕を取った。思いきり(ひね)って、体重をかけた。


 クラウスが床に伏せた。


 カイルが上から押さえた。動けなくなったクラウスは、呻き声をあげていた。



 廊下が、静かになった。


 二人とも、荒い息をしていた。


「——ッ、離せ」


「動くな」カイルは静かに言った。「もう、終わりです」


 クラウスが歯を食いしばった。それでも、体が動かなかった。


 その瞬間。




「リヒテンハイン公爵!」


 廊下の正面から、アドルフの声がした。


「帝国騎士団長アドルフ・ハルトマンとして通告する。東方聖典教団との共謀、および帝国市民の不法拘束の容疑で、あなたを拘束する」


 騎士たちが廊下を埋めた。


 クラウスは床に伏せたまま、しばらく動かなかった。


 それから、諦めたように力が抜けた。


「……クソっ!後少しだったのに」


 カイルは手を離した。立ち上がった。肩が痛かった。背中も痛かった。顎をかすめた箇所が、じんじんしていた。


 それでも、エルザの監禁されているであろう部屋に走った。



 カイルはクラウスをアドルフに任せて、振り返った。


 鍵のかかった扉の前に立った。


 セドリックが錠に手をかけるよりも早く、カイルは扉の木板を激しく叩いた。

「エルザ、扉から離れるんだ! 奥へ下がれ!」


 彼女が身を引いた気配を鋭く察知するやいなや、カイルは右肩を何度も扉へと叩きつけた。

 

 頑強に閉じられていた扉は、枠ごと無残に内側へとなぎ倒された。




 小さな物置部屋に、エルザがいた。


 壁に手をついて、立っていた。膝が震えているのが見えた。


 怯えた表情のエルザと目が合った。


「……カイルさん」


 エルザの声は、しっかりしていた。震えていなかった。でも、顔は白かった。一晩中ここにいて、大変だっただろうし、心細かっただろう。


「来ました」とカイルは言った。「遅くなって、すみません」


「遅くないです」エルザは言った。「ちゃんと、来てくれました」


 カイルは一歩、近づいた。手を差し伸べた。


 エルザはその手を、躊躇わずに取った。


「聞こえていましたか?」エルザは言った。「さっきの、私が言ったこと」


「ええ。聞こえていました」


「……恥ずかしいですね」


「いいえ」カイルは言った。「ありがとうございました」


 エルザはうつむいた。


 カイルは何も言わなかった。ただ、握った手に少しだけ力を込めた。


 エルザも、同じ力で握り返した。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ