16 扉の向こう側
リヒテンハイン家の屋敷は、帝都の西区にあった。
かつては名門中の名門と謳われた公爵邸だが、そびえ立つ外壁には隠しきれない蔦が這い、石造りの彫刻もところどころが欠け落ちている。
しかし一歩足を踏み入れれば、そこには過剰なほどの「黄金」が塗り込められていた。
だが、鼻を突くのは金特有の重みではなく、安っぽい塗料の乾いた臭いだった。
広間の天井からは、埃を被りながらも巨大なクリスタル・シャンデリアが下がり、壁には煤けながらも金縁の額装が並ぶ。
床に敷かれた真紅の絨毯は、擦り切れた箇所を隠すように重厚な調度品が不自然に配置されていた。
何かを誤魔化すように焚かれた強い香の匂いと、調理場から流れてくる牛脂の重い香りが、古い石造りの湿り気と混じり合っていた。
エルザが訪れた夕方、屋敷には確かに人がいた。色褪せた正装に身を包んだ、帝国貴族と思しき男女が数名。彼らは手にした銀杯の曇りを隠すように、大声で笑い合っている。
そして——その中心に、ゲルハルト卿の姿も、確かにあった。
エルザの胸のざわつきが少しだけ収まった。
(大丈夫だ。普通の夕食会だ)
彼女が歩み寄り、ゲルハルト卿に挨拶を捧げると、老卿は「おお、エルザ嬢か。見違えたな」と目を細めて微笑んだ。父の容体について触れると、彼は痛ましそうに顔を曇らせ、「……そうか。くれぐれもよろしく伝えてくれ」と、労わりのこもった声を漏らした。
それで、役目は果たした。すぐにでも帰れるはずだったのだ。
だが、その瞬間ーー
「エルザ」とクラウスが、澱んだ空気の中を滑るように近づいてきた。「来てくれてよかった。少しいいか。奥の部屋に、お前に渡したいものがある。お父上へ、ゲルハルト卿からの見舞品らしい」
見舞品。父への。
それは、今のエルザにとって最も抗いがたい響きだった。
病に苦しむ父の名を突きつけられれば、背を向けることなど許されない。嫌な予感に騒ぐ胸を抑え込み、彼女はただ、重い足を踏み出すしかなかった。
「……わかりました」
促されるまま、厚い絨毯の上を歩く。廊下の角を曲がるたび、広間の喧騒や銀食器が触れ合う高い音は、厚い壁の向こうへと吸い込まれていった。代わりに聞こえてくるのは、自分の心臓の音と、二人の足音だけだ。
古びた油彩画が並ぶ薄暗い廊下を抜け、重厚な木製の一枚扉の前でクラウスが足を止めた。
小さな部屋に入った。そこは、先ほどまでの黄金の虚飾が嘘のような、狭く薄暗い一角だった。
窓ひとつない空間には、カビの混じった古い紙の匂いと、長年放置された埃の匂いが充満している。壁際には、脚の折れた椅子や、蜘蛛の巣の張った巨大な額縁が乱雑に積み上げられていた。
公爵家の「恥」をすべて押し込めたような、光の届かない物置だ。
背後で、重い扉が吸い付くように閉まった。
直後、静寂を切り裂くように、硬質な金属が噛み合う——カチリ、という鍵のかかる音がした。
「クラウス様?」
振り返った瞬間、エルザは気づいた。
部屋の中に、見知らぬ男が二人いた。
外国人だ。東方の——
「座れ、エルザ」
声が変わっていた。社交的な柔らかさが、完全に消えていた。
「……これは、どういうことですか」
「そうだな。私は優しいから、説明してやってもいいぞ」クラウスは椅子に座った。「お前の魔力は枯れた。しかし、お前には別の価値がある。帝国最後の聖女——それだけで、東方の神殿では充分な対価を出す。向こうには今でも魔力を崇拝する宗教組織があってな。本物の聖女の血を、儀式に使いたがっている」
「明日の朝、お前を迎えにきてくれる。それまで、ここで大人しくしていろ!」
エルザは一瞬、耳にした言葉の意味を脳が拒絶するのを感じた。
ーーだが、数秒たち、
意味を理解した瞬間、指先から血の気が引いていくのが分かった。
「そんな……正気ですか?」
「ビジネスだ」クラウスは言った。「帝国は沈んだ。私は生き残らなければならない。リヒテンハイン家の財政はもう限界だ」
エルザは動こうとした。扉へ。
「動くな」
クラウスの声が低くなった。
「エルザ。聞いてくれ」彼は続けた。「お前が大人しくしていれば、誰も傷つかない。お父上の療養先には——手を出さない。今夜ここに来ているゲルハルト卿たちにも、何もしない」
エルザの足が止まった。
「もし、大人しく従わなかったら、お父様をどうするつもりですか?」
「帝都の外にいらっしゃるだろう。今夜、私の部下が近くにいる。お前が騒げば——」
「もしかして……脅しているんですか?」
「条件だ」クラウスは静かに言った。「お前がここにいる間は、誰も傷つけない。それだけだ」
エルザは広間の方向を見た。扉一枚の向こうに、ゲルハルト卿がいる。父の旧友が。
(叫べば聞こえるかもしれない)
「叫んでも無駄だ」クラウスは言った。まるで心を読んだように。「あの方々には、お前が自分から来たと思わせてある。俺から何かを受け取る約束があって、二人で話している——そういうことになっている。騒いだところで、あの方々には状況が見えない」
エルザは、動けなかった。
(逃げれば、お父様に何かあるかもしれない)
(叫んでも、ゲルハルト卿たちを巻き込むだけかもしれない)
(私がここにいれば——二人を守れるのだろうか)
長い沈黙の後、「……わかりました」とエルザは言った。
声は、震えていなかった。
「でも、ひとつだけ」
「何だ?」
「ゲルハルト卿には、私が無事に帰ったと思わせてください。あの方を、不安にさせたくない」
クラウスは少し目を細めた。
「……お前は変わったな」
「そうですね。変わりました」エルザは言った。「あなたと婚約していた頃の私とは、別人だと思います」
クラウスは何も言わなかった。
クラウス達が出て行った後、エルザは部屋の隅に座って、膝を抱えた。
怖かった。心臓が速く打っている。手が冷たい。
窓の格子を揺さぶってみたが、岩のように微動だにしなかった。
焦燥に駆られ、扉の隙間に指を這わせる。だが、そこにあるはずの蝶番の膨らみがどこにもない。
「隠し蝶番……?」
継ぎ目すら見せないその造りは、ここがただの物置などではなく、最初から逃亡を阻むために設計された「檻」であることを物語っていた。
できることが、なかった。
エルザは膝を抱えたまま、考えた。
(お父様は今夜、無事だろうか)
(カイルさんは——)
カイルは知らない。今夜、自分がここにいることを。
(相談すればよかった)
後悔が、じわりと広がった。距離を置くようにと言われていた。調べている、と言われていた。あのときもっと話を聞いていれば。
(でも——)
エルザはゆっくりと、息を吸った。
今さら悔やんでも仕方がない。今できることを、考えよう。
そして——信じよう。
カイルさんは、調べていると言った。あの人が「調べている」と言ったなら、きっとすでに何かを掴んでいる。
あの人を、信じたい。
カイルさんなら、来てくれるかもしれない。
エルザは膝の上で、右手の薬指の傷跡にそっと触れた。
幼馴染のアドルフに手紙を出してきた。
もしかしたら、私に何かあったと気づいてくれて、私を探してくれているかもしれない。
狭くて暗いところに閉じ込められ、音もなかったので、エルザは不安に押しつぶされそうだった。
このまま、エルザという人間は暗闇の中に溶けて、消えてしまうんじゃないかと、何度も思った。
震えながら、膝を抱えて小さくなって、夜明けを待った。
わずかな身じろぎで衣擦れの音がするたびに、心臓が跳ねた。
エルザは呼吸を殺し、ただ一点、扉の下の僅かな隙間に意識を集中させた。
時計の針が刻む一分が一時間にも引き延ばされるような錯覚の中で、終わりの見えない闇と静寂だけが、幾重にも重なる絶望となってエルザの上に降り積もっていった。




