13 クラウスという男
クラウス・リヒテンハインが帝國カフェーに初めて現れたのは、エルザがバリスタになって四ヶ月目のことだった。
その日、エルザは午後のシフトに入っていた。客足が落ち着いた三時頃、扉が開く音がした。
カランコロン。
顔を上げた瞬間、エルザの手が止まった。
蜂蜜色の髪に、整った顔立ち。帝国でも指折りの公爵家嫡男としてふさわしい、隙のない上着と物腰。かつて聖女だった頃のエルザが「申し分ない」と思っていた顔だ。
クラウス・リヒテンハイン。婚約を、手紙一本で解消した男だった。
「やあ、エルザ。久しぶりだね」彼は社交界で磨き抜かれた、隙のない微笑みを浮かべた。
「クラウス様?」
エルザの戸惑う声に、彼はわずかに目を細める。
「ああ、その顔は知らなかったようだね。去年、正式に公爵位を継承したんだ。リヒテンハイン公爵と呼ぶばれることが多いけど、クラウス様でも君なら許そう。なんなら様もなくていいんだよ」
エルザは内側で、何かが静かに固まるのを感じた。
――もう二度と、会いたくなかったのに。
「いらっしゃいませ」冷静を装って、エルザは言った。「何になさいますか?」
クラウスは少し目を見開いた。その反応を予想していなかったのだろう。
「……仕事中か」
「ええ、そうです」
「少し、話せないか」
「お客様のご要望は、お茶の注文のみお受けしております」
クラウスは苦笑した。
「相変わらず君は手強いな。では銀露をお願いしようか」
「銀露ですね。承りました」
クラウスはそれから、週に一度来るようになった。
最初の数週間は、エルザも距離を保ちながら様子を見ていた。しかし回を重ねるうちに、クラウスはエルザに近づいてきた。
来るたびに、エルザに謝った。
ただ謝るだけではなかった。毎回、少しずつ内容が違った。まるで、ずっと溜め込んでいたものを、少しずつ吐き出しているかのようだった。
「あの朝、手紙を書いたとき」とある日クラウスは言った。「私は自分が許せなかった」
エルザはカウンターの内側で、インク壺の蓋を開け、ペン先にインクを浸していた。視線は手元の帳面に落としたまま、次に書き込むべき一行をじっと見つめている。
「……今さら、そういう話は」
「聞いてくれないか。頼む」
エルザは少し間を置いた。
帳面を片付け、水をグラスに注ぎ、クラウスの前に置いた。
「これを飲んだら、お帰りください」
「わかった」クラウスは両手でカップを包んだ。「あのとき、私は怖かったんだ。帝国が沈んでいくのが、リヒテンハイン家が沈んでいくのが。お前の魔力が目当てだったのは事実だ。でも、それだけじゃなかった」
「クラウス様」
「お前のことが、嫌いじゃなかった。むしろ——」彼は言葉を切った。「私にはお前が、眩しすぎた。傍にいる資格があるのかどうか、ずっと自信がなかった。だから、お前から逃げてしまったんだ。卑怯だとわかっていて、逃げた」
エルザは返事をしなかった。
代わりに、新しいお客が入ってきた。カランコロン、と鈴が鳴る。
「失礼します」とエルザは言って、クラウスから離れた。
クラウスはその後すぐ、静かに出て行った。
別の日。
「初めて君に会った時、なんて綺麗な子なんだ、と恋をしたんだ」とクラウスは言った。「婚約が嬉しくて、三日も寝れなかった」
「……」
「お前の魔力が枯れたと聞いたとき、私は——」
「クラウス様」エルザは静かに遮った。「私はこれまで、あなたのことを忘れて生きてきました。過去のことを蒸し返されるより、今日のバリスタとしての仕事に集中させていただけますか?」
「……すまない」
クラウスはうつむいた。その横顔は、エルザが知っている「完璧な貴族の男」ではなかった。何かに、ひどく疲れた顔だった。
(この人は、本当に後悔しているのだろうか?)
エルザにはわからなかった。ただ、その疑問が頭に引っかかり始めていた。
ルーカスが、ある日こっそり言った。
「先輩、あの人、また来たっすね」
「知ってるわ」
「オーナーとは全然違う目をしている気がするっす。オーナーは先輩のことだけを見てるっすけど、あの人は……なんか、先輩を見ながら別のことを考えてる目をしているような」
エルザはルーカスを見た。
「ルーカス、意外と鋭いのね」
「え、そうっすか!?でも何か引っかかってるんっす」
「……私も、あの男は信用できないわね」
背後から響いた低い声に、二人は肩を跳ねさせた。いつの間にか店長のリリーが、カウンターの影で銀のトレイを磨きながら立っていた。鋭い眼光は、客席の奥で俯く男の背中に向けられている。
「ああいう、過去に足首を掴まれているような男の言葉は、安易に信じちゃダメよ。本人がどれほど誠実なつもりでも、その背後にある『事情』まで誠実だとは限らないんだから」
リリーは一瞬だけエルザに視線を戻すと、顎でフロアを指した。
「さあ、二人とも、仕事!仕事!」
「はいっ!」
「はいっ!」
ルーカスが慌てて飛び出していく。
リリーもまた、磨き終えたトレイを棚に戻すと、音もなく奥の事務室へと消えていった。
エルザは手を動かしながら、その言葉を小さく反芻した。
別のことを考えている目。
自分も感じていた。ただ、確信が持てなかった。
クラウスの謝罪は、本物のように見えた。あの疲れた横顔は、演技とは思えなかった。
しかし——。




