12 アドルフが来た
ある日、帝國カフェーにアドルフが来た。
「エルザ!ついにバリスタになったって本当か!?」
「声が大きい。しーっ」エルザは、艶やかな赤いルージュをなぞるように人差し指を立てて、言葉を紡いだ。
「すごいな、似合ってるぞ、そのエプロン。エルザはどんな格好でも、可愛いな」
「ふふ。相変わらず口がうまいわね。ありがとう。何か注文する?」
「銀露を頼む」
アドルフは席に座って、少し周りを見回してから、声を落とした。
「今日も元気そうで、よかった」
「心配してくれてありがとう」
「いつも心配してるさ」アドルフはカウンターに肘をついた。「おじさんの病気のこともあったし。一人暮らしだろ?寂しくないか?」
「それにさ、最近よく思い出すんだよな。あのクソ野郎のこと。エルザ、あいつのことまだ根に持ってたりしないのか?」
エルザはお湯を注ぐ手を止めなかった。
「一人暮らしは順調よ。寂しくなんてないわ。楽しんでるくらいよ。それに、あのクソ野郎のことは、もう忘れたわ」
「本当に?」
しばらく沈黙があった。ルーカスが奥に引っ込んでいるのを、エルザは横目で確認した。気を遣ってくれているらしい。いつもよりだいぶ静かだ。
「……エルザ、聞かれたくないなら言わなくていい。でも俺は、お前があのことをどこかに押し込めたままなんじゃないかと、ずっと気になってた」
エルザは少し間を置いた。それから、お湯を注ぐ手を静かに止めた。
「クラウス様との婚約解消の話のこと、よね?」
「ああ」
クラウス・リヒテンハイン。帝国北部の公爵家の嫡男で、エルザが二十歳のとき婚約した相手だ。
当時、帝国ではまだ「魔力文明の衰退は一時的なもの」という楽観論が主流だった。むしろ「希少な魔力保有者の価値は上がる」と言われていた。エルザはその筆頭として、いくつもの縁談を受けた。クラウスとの縁談もそのひとつだった。
クラウスは端正な顔立ちで、弁が立って、社交界での評判も悪くなかった。父も母も「申し分ない相手だ」と言った。エルザ自身も、特に断る理由がなかった。
父と母が選んだ相手を好きかどうかは、あまり考えなかった。考える必要があるとも、思っていなかった。
「あいつはな」とアドルフは言った。「最初から計算していたんだと思う。エルザの魔力を家に取り込むことをさ」
「それは、貴族の婚姻なんてそういうものでしょう?」
「違う」アドルフは静かに、しかしはっきり言った。「エルザ、俺は騎士団長をやってるから、立場上色んな情報が入ってくるんだよ。最近知ったんだけど、リヒテンハイン家は、帝国の衰退が見えてきた時点で、すでに新興連合への資産逃避を始めていたらしい。あいつは婚約しながら、裏で連合の商人と金の話をしていた。そして、エルザの魔力が使えなくなったとわかった瞬間に——」
「……婚約を解消したわね」
「手紙一本でな」
エルザは手を動かし続けた。蒸らし時間を数えながら。
「知ってたわ、そのくらいのことは」
「本当に知ってたのか?もし知ってたとして、平気でいられるのか?」
「それはさ、当時は平気じゃなかったよ。でも」エルザは少し考えた。「腹が立つより先に、自分の鈍さに呆れたの。打算で近づいてくる人間を、打算だと気づけなかった。それが恥ずかしかったわ。それに婚約解消はもう何年も前の話よ。今更そのことについて考えたくないわ」
「エルザは何も悪くなかった」アドルフは声を荒げかけて、こらえた。「悪いのは全部あいつだ。エルザの魔力が枯れたから価値がなくなったなんて、——こんなにも可愛いエルザのどこを見ていたんだ、あいつは」
「だから言ったでしょう」エルザは静かに言った。「私も、人を見ていなかった。見ていたのは、肩書きや評判ばかりだった。だからお互い様よ」
「お互い様じゃない!!エルザは悪くないんだってば!」
「アドルフ、落ち着いて」
「……わかった」アドルフは深く息を吐いた。「わかった。この話はエルザにしないよう、って気をつけてたはずだったのに、ごめん。でも、エルザが『お互い様』と言えるまでになったこと、俺にはすごいと思った」
「そうかな?」
「あの頃のエルザすごく落ち込んでたし。この話、絶対エルザの前でできないなって、俺思ってたんだよね。それにさ、あの頃のエルザだったら、あいつのこと悪く言ってたんじゃないかな」
エルザは少し黙った。それから、小さく笑った。
「……そうね。あの頃の私なら、そう言っていたかも」
「それにあの婚約解消の後、エルザは全部の婚約の打診を断ってたよな?」
「そうね。そうしているうちに、婚約の打診も来なくなったけどね」
「変わったよ、エルザは」アドルフは言った。「いい方向に」
「変わらざるを得なかっただけ」
「それでもいい。変われる人間と、変われない人間がいる。エルザは変われた。それってすごいことだよ。俺はエルザを尊敬してる」
銀露が仕上がった。エルザはカップをアドルフの前に置いた。
アドルフはひとくち飲んで、目を細めた。
「うまいな」
「ありがとう」
「エルザが淹れるお茶って、なんかこう——ちゃんとしてるな。なんか、飲まされる側の人間のことを考えてくれてるというか」
「んっ?どういう意味?」
「なんか、気持ちが入ってる感じ?うまく言えないけど」アドルフは照れくさそうに言った。「飲んでいると、ちゃんと自分のために淹れてくれたんだなって、わかるんだよな」
エルザはしばらく黙った。
「……そう言ってもらえると、嬉しいわ」
「うまいお茶をごちそうさま」アドルフはカップを置いた。「それとさ、聞いてもいい?」
「え〜、ダメって言ったら?ふっ。ウソよ。聞きたいことって何?」
「ドゥラン商会の代表と、うまくいっているか?」
エルザはお湯を注ぐ手を止めなかった。
「そうね。仕事でよくしてもらってるわ」
「そういうんじゃないのはわかってるだろ?」
「もう。アドルフ!」
「俺はお前の幼馴染として、純粋に心配しているんだ」
「あ〜もう。アドルフの心配はいりませんよ〜」
「でも、あの男、本気だぞ。俺が誕生日を教えたとき——」
「勝手に教えるなんて!余計なことして!」
「聞いてくれ」アドルフは手を上げた。「あの男、俺に言ったんだ。『アドルフ殿、エルザを幸せにすることに全力を尽くします。振られたら一生結婚しません!』って」
エルザは湯を注ぐのを止めた。
「なにそれ?私の知らないところで、変なやりとりしないでよ」
「まあ、それだけエルザに本気ってことだろ?」
「………」
「俺にそれを言いに来たんだよ、わざわざ。あの男、筋を通しにきたんだ。俺のこと、エルザと一番近い男友達だと思ってくれてるのかな?いや〜、照れるな〜」
エルザはしばらく黙った。
「……馬鹿ね。二人とも」
「そうか?俺はちょっと、代表のことを格好いいと思ったけどな〜」
「アドルフがそう思うなら、そうかもね」
「エルザ」アドルフは少し真剣な目になった。「俺は諦めてない、と言い続けてきたけど。お前が、誰かの前で本当に笑えるなら——俺はちゃんと引く。だから、正直に教えてくれ。あの男のこと、どう思ってる?」
エルザは少し間を置いた。
「……わからないの」とエルザはうつむいて言った。「でも、一緒にいて楽しいとは思う」
「そうか」アドルフは深く息を吐いた。「そうか。よかった。まあ、焦らずゆっくりだな…」
「アドルフ、勝手に話を進めないでちょうだい」
「俺は大丈夫だ。本当に」彼は笑った。少し目が赤かったが、笑っていた。「幼馴染として、ずっと応援する。あと、銀露はどうなった」
「さっき出したよ?二杯目?」
「ああ、頼む。それと、誕生日をあの男に教えたお礼に、二杯目の銀露を奢ってくれる必要はないからな」
「奢るわけないじゃん!誕生日教えたの、許してないし」
「知ってる。冗談だよ」
「それと、二杯目の銀露と一緒に、ほっぺにキスも頼む」
「もお、さっきの応援するって話はどうなったの?キスはお外の野良猫ちゃんに、お願いするといいわ」
「あ〜あ、今日もエルザは手厳しいな」
「当然よ。じゃっ、二杯目淹れてくるわね」
アドルフはワハハと笑ったまま、窓の外を見た。
あいにく、その辺に野良猫はいないようだった。
エルザは丁寧に銀露を淹れた。
二杯目の銀露は、少し甘めに。




