八
公判を十日後に控えた日の朝、篠原から電話が来た。
「航が警察に行った」
篠原の声は平らだった。
「ゆうべ、宮下さんの嘆願書の話を俺がした。あの母親も話がついた、もう心配するなと言ってやった。そうしたら、夜中に一人で署へ行った」
遠山は布団の上に座ったまま、電話を耳に当てていた。
「医者の診断書は用意した。事故のあと、ずっと眠れていない。酒も増えた。錯乱して、自分を責めている。それで通る。お前は今まで通り話せばいい」
「息子さんは」
「病院に入れた」
電話が切れた。
昼過ぎに、堀から呼び出しがあった。
前と同じ部屋だった。机の上に、紙が何枚か伏せて置いてあった。堀はそれを表にしないまま言った。
「篠原航が、自分が運転してたって言ってる」
「酔ってたんでしょう」
「ゆうべは素面だったよ。珍しくな」
堀は伏せた紙の一枚を指で叩いた。
「坂の下の信号で、あんたと運転を代わった。四百メートルだけ。代わりに一万円をあんたの胸ポケットに入れた。そう言ってる」
堀は遠山を見た。
「胸ポケットの一万円。俺は覚えてたよ」
遠山は膝の上で指を組んだ。
「あれはチップです。前にも言いました。あの人は前にも、最後だけ自分で運転させろってごねたことがある。随伴の杉浦に訊いてください。俺は断った。だから今度もそうしたと思い込んでるんでしょう。あの晩、あの人は助手席で寝てました。覚えてるはずがない」
「被害者の母親が、嘆願書を出してるな。運転手を許すって」
「知ってます」
「出来すぎだと思わねえか」
堀は椅子の背にもたれた。
「親父は金を払う。母親は許す。運転手は猶予がつく。誰も困らねえ。困ってるのは、本当のことを言いにきた酔っぱらいだけだ」
遠山は堀の目を見返した。
「俺が殺したんです」
言ってみて、それが嘘のように聞こえないことに、遠山は驚かなかった。坂の下で胸ポケットに一万円が入ったとき、遠山は車を降りて助手席に回った。あれは自分の足でしたことだった。
「あの子の手、握ってたのは俺です。あの子は俺に謝ったんです。すみませんって。あいつは、それを知らない」
堀は長いあいだ黙っていた。廊下を誰かが笑いながら通り過ぎた。
「俺の仕事はな、誰が運転してたかを決めることじゃねえんだ」
堀は伏せた紙を揃えて、ファイルに戻した。
「書類が揃ってるかどうかだ。検事は、公判の十日前に被告人を入れ替えるのを嫌がる。被害者遺族の嘆願書つきの事件を、精神科の診断書つきの酔っぱらいの話でひっくり返すのは、もっと嫌がる」
堀はファイルを脇に挟んで立ち上がった。
「揃ってるよ。気持ち悪いくらいにな」
ドアのところで、堀は振り返らずに言った。
「帰っていい」
署の駐車場を出たところで、篠原から電話が来た。どこかで見ていたような早さだった。
「どうだった」
「帰っていいと言われました」
篠原は短く息を吐いた。礼は言わなかった。
「息子さんは、どうしてますか」
「お前の仕事じゃない」
電話が切れた。遠山はバス停まで歩いた。免許はまだ取り消されていなかったが、乗る車がなかった。




