七
二月の、雪が降りそうで降らない夜だった。
交差点の街路樹の前に、先客がいた。黒いダウンを着て、しゃがんで、枯れた菊を新しいのに挿し替えていた。遠山は足を止めた。引き返す前に、恵子が振り向いた。
恵子は立ち上がって、膝の汚れを払った。驚いた様子はなかった。
「毎晩、来てるでしょう。近所の人が言ってた。夜中に男の人が来て、花替えていくって」
遠山は手に持ったコンビニのレジ袋を、体の後ろに回しかけて、やめた。
「昨日、篠原さんの息子さんが、うちに来たの」
恵子は街路樹を見ながら言った。
「玄関で土下座して。同乗していながら止められませんでした、申し訳ありませんでしたって。それで泣いて。十分くらい泣いて、帰っていった」
風が吹いて、レジ袋が鳴った。
「同乗してただけの人が、あんなふうに泣く?」
遠山は何も言わなかった。
「あなたは、泣かなかった。あの部屋で。額を床にくっつけて、上げたら、乾いた顔してた」
恵子が遠山を見た。
「運転してたの、あなたじゃないんでしょう」
信号が変わって、交差点を軽トラックが一台通っていった。ライトが恵子の顔を横切った。
遠山は口を開いて、閉じた。
「言わなくていい」と恵子は言った。
しばらく二人とも黙っていた。それから恵子が、まるで総菜の値段を訊くような声で訊いた。
「いくらもらったの」
遠山は答えた。嘘をつく理由が、もうどこにもなかった。
「三千万」
恵子は笑った。笑って、咳きこんで、口元を手の甲で押さえた。
「悠斗の分はね、保険会社が払うの。篠原さんの財布から出たのは、お見舞いの三百万だけ」
恵子は手の甲を見て、それをダウンのポケットに入れた。
「あの子の命には三百万で、あなたの嘘には三千万出したのね」
遠山は、恵子が次に言うことを待った。警察。記者。戸川。どれでもおかしくなかった。どれを言われても、自分はたぶん頷くだろうと思った。
「戸川さんに電話して」
恵子は言った。
「篠原さんに、会いたいって伝えて」
「何を、するんですか」
「嘆願書、書いてあげる」
遠山には、意味がわからなかった。
「本当のことにしたら、あの息子さんが刑務所に入って、何年かして出てきて、それで終わりでしょう。篠原さんは、息子は償いましたって顔をする。会社も残る。あの家は、元に戻る」
恵子は街路樹の根元を見下ろした。新しい菊が、街灯の光で白く見えた。
「終わらせない」
それから、少し声が変わった。
「パートの時給、千八十円なの。悠斗が倉庫の夜勤に入ってたのは――」
恵子はそこで言葉を切った。続きは言わなかった。
遠山は、続きを知っていた。倉庫の正門の前で聞いていた。内緒にできるもんなんすかね、とダイスケは言った。できなかったのだ、と遠山は思った。
「あなたは、嘘をつき通して。それがあなたの仕事でしょう。代行って」
恵子は遠山の横をすり抜けかけて、足を止めた。
「篠原さんのところには、あなたも来て」
「俺が行って、どうするんですか」
「座ってればいい。あなたの顔を見れば、あの人はわかるから」
恵子は坂とは反対の方向へ歩いていった。遠山はその場に立ったまま、レジ袋の中の花が、自分の手の熱でしおれていくのを感じていた。
四日後の夕方、篠原建設の社長室に、四人が座った。
篠原は恵子を迎えるとき、遠山のときと同じように机を回り込んできて、深く頭を下げた。恵子は頭を下げ返さなかった。ソファに座ると、膝の上でスーパーのトートバッグの持ち手を握った。あの日と同じバッグだった。
「このたびは」と篠原が言いかけた。
「運転してたのは、息子さんですね」
戸川がボールペンを置いた。篠原は恵子を見て、それから遠山を見た。遠山はその目を受けた。篠原の顎の筋が、一度だけ動いた。
「この人は何も言ってません」と恵子は言った。「息子さんが、うちに来て泣いたんです。玄関で、十分」
篠原は長く息を吐いた。窓の外で、ユンボのエンジンが止まった。
「……あれは、そういうやつなんだ」
それは恵子に言ったのでも、遠山に言ったのでもないようだった。
「警察に行かれるおつもりですか」と戸川が訊いた。
「行くなら、ここには来ません」
恵子はトートバッグの中から、四つに折った紙を出した。ボールペンで何か書いてある。戸川が手を伸ばしかけたが、恵子はそれを篠原の前に置いた。
篠原は紙を開いた。読んで、たたんで、膝の上に置いた。
「遠山くん」と篠原は言った。「外してくれ」
遠山は恵子を見た。恵子は遠山を見なかった。
廊下のベンチで、遠山は四十分座っていた。事務員が湯呑みを二つ盆に載せて社長室へ入り、出てきて、もう遠山の方は見なかった。ドア越しには何も聞こえなかった。自分の嘘の値段を決める部屋に、自分は座っていない。そのことが、思っていたより堪えなかった。代行の待合で、客の飲み会が終わるのを待っているのと同じだった。
ドアが開いて、恵子が出てきた。顔は入っていったときと何も変わらなかった。遠山の前を通り過ぎて、階段の手前で振り返った。
「あの人、息子さんのことを、最後まで一度も悪く言わなかった」
恵子はそう言って、階段を下りていった。足音は一定で、踊り場で一度も止まらなかった。
社長室に戻ると、篠原は窓際に立って、恵子が出してきた紙を灰皿の上で燃やしていた。
「いつから組んでた」
「組んでません」
「どっちでもいい」
篠原は燃えかすを指でつぶした。
「あの人のほうが、お前より高かった」
三日後、戸川から電話があった。嘆願書をいただけることになりました、と戸川は言った。よかったですね。
いくらで話がついたのか、遠山は訊かなかった。戸川も言わなかった。




