九
拘禁刑一年六月、執行の猶予三年。
判決を言い渡されるあいだ、遠山は裁判長の顔ではなく、その後ろの壁にかかった時計を見ていた。傍聴席の二列目に、恵子が座っていた。紺のスーツを着ていた。被害者遺族として意見を述べる機会があったが、恵子は書面を出しただけで、口は開かなかった。
嘆願書は、その前の期日に、戸川が証拠として読み上げていた。
――運転していた方は、事故のあと逃げることなく救急車を呼び、救急隊が到着するまで息子の手を握っていてくださいました。息子は最後に、その方に「すみません」と言ったそうです。息子は、そういう子でした。私は、その方を許したいと思います。寛大なご処分をお願いいたします。
戸川の声は抑揚がなく、よく通った。書いてあることは、一つ残らず本当だった。運転していた方、という一語を除いて。
読み上げのあいだ、恵子は膝の上で手を重ねて、前を見ていた。遠山は被告人席から、その横顔を一度だけ見た。口元が、何かを数えるように、かすかに動いていた。
閉廷して振り返ったとき、恵子はもう席を立っていた。廊下に出たときには、背中も見えなかった。
篠原は来ていなかった。莉子も来ていなかった。
判決が確定した翌週、戸川が遠山のアパートに来て、紙袋をひとつ置いていった。百貨店の、持ち手の太い紙袋だった。戸川が帰ってから、遠山は袋を持ち上げてみた。二千二百万は、思ったより軽かった。
公安委員会からの通知も届いた。免許の取消し。欠格期間一年。二十年分の、ハンドルを握るための紙だった。遠山はそれを紙袋の横に置いた。流しの上の棚には、自転車のライトが、まだ箱のまま載っていた。
莉子の口座に、来年度の前期の学費を振り込んだ。三日後、一行だけ返事が来た。
届いた。
遠山はその二文字を、しばらく画面に出したままにしていた。
四月の夜、交差点へ行った。街路樹に若い葉が出ていた。根元の菊は新しかった。恵子は今も来ているのだろう。その隣に、見覚えのない缶コーヒーが立っていた。遠山が置いたものではなかった。
坂の下の路肩に、黒いSUVが停まっていた。エンジンがかかったままで、運転席の窓が下りていた。
航だった。退院したのだと、遠山はそのとき知った。頬がこけて、髪を短くしていた。助手席に、コンビニの袋と、空いた缶が二本転がっていた。
航は窓から遠山を見上げた。
「返してくれ」
「何を」
「俺のだろ、あれは」
遠山は答えなかった。
「あんたが持ってるとさ、俺には何も残らないんだよ。親父の金と、椅子と、……飲むと、あの音がするんだ。軽い音。それしか残ってない」
航の手がハンドルを握っていた。指の関節が白かった。
「もう、俺のだ」と遠山は言った。
航は笑ったように見えた。それからギアに手を伸ばした。
遠山は運転席のドアを開けた。
「どけ」
「あんた、免許ないだろ」
「ねえよ」
航はしばらく遠山を見上げていた。それから、のろのろとシートベルトを外し、助手席の缶とコンビニの袋を足元に落として、助手席へ移った。
遠山は運転席に座った。シートはまだ航の体温で温かかった。一番後ろまで下げられていて、足がペダルに届かなかった。
助手席で、航が財布を探っていた。一万円札を一枚抜いて、遠山の胸ポケットに差し込んだ。癖なのだろう、と遠山は思った。抜いて返そうとして、やめた。
遠山はレバーを引いて、シートを二段前に出した。カチ、カチ、と音がした。
ヘッドライトが街路樹の根元を照らし、菊の白がいっぺん浮かんで、後ろへ流れた。
坂の上まで、四百メートルだった。




