四
被害者の母親が、示談の前に運転手の顔を見たいと言っている、と戸川から電話があったのは十二月の半ばだった。
「断ることもできますが、会われたほうがいい。嘆願書をもらえるかどうかで、猶予がつく確率が変わる」
戸川の事務所の応接室で、遠山は宮下恵子を待った。約束の時刻を十分過ぎて入ってきた恵子は、スーパーの名前の入ったビニールのトートバッグを提げていた。総菜売り場のパートを抜けてきたのだと、戸川があとで言った。四十九歳。悠斗を一人で育てた、と調書にあった。
遠山は床に膝をつき、額をカーペットにつけた。
恵子は何も言わなかった。座りもしなかった。エアコンの音と、戸川が手帳のページを押さえる音だけがしていた。遠山の額の下で、カーペットの毛が湿っていった。
「顔、上げてください」
遠山は顔を上げた。恵子は立ったまま遠山を見下ろしていた。目の下の皮膚が薄く、青かった。
「あの子、最後に何か言いましたか」
遠山は口を開いた。
「すみません、と」
恵子の表情は変わらなかった。しばらくして、トートバッグの持ち手を握り直した。
「……あの子、いつも謝るの。自分が悪くなくても」
それから恵子は、ソファの端に浅く腰を下ろした。
「救急車、呼んでくださったんですってね」
「はい」
「救急の人が言ってました。運転してた人が、ずっと手を握ってたって」
「……はい」
「それは、ありがとうございました」
遠山は何も言えなかった。そこまでは全部本当だった。本当のことを言って礼を言われているのに、喉の奥に何かが詰まって、息がうまく抜けなかった。
示談書には、恵子は黙って署名した。戸川が二枚目の書類を出し、「それから、刑事処分について、寛大な――」と言いかけたところで、恵子は首を振った。
「それは書きません」
戸川は書類を引っ込めた。
帰り際、エレベーターの前で、恵子が振り返った。
「裁判、見に行きます」
扉が閉まってから、戸川が言った。
「嘆願書がないと、五分五分です」
五分五分、と遠山は口の中で繰り返した。二千万の残りは判決確定のあとだった。実刑なら、刑務所の中で確定を聞くことになる。
その夜、遠山は交差点へ行った。街路樹の根元に、花が三つ供えてあった。菊と、缶コーヒーと、少年漫画の単行本。遠山は手ぶらで来たことに気づいて、コンビニまで歩き、いちばん安い花を買って戻った。
それから、ほとんど毎晩行くようになった。代行の仕事はもうなかった。夜は長かった。




