不眠の般若と、山積みの縁談
目の前で、エスト兄上ははぁ、と大きいため息をついた。
あきれられてしまっただろうか。大切な家族に失望されるのは、本当に嫌だ。
「俺たち家族はお前の望みを知っているが、周りはそうじゃねぇ。お前は自分の客観的評価をかなり辛くしがちだが、いい加減それを受け入れろ。情報を集めろ。わからねぇなら俺に聞け。俺に聞けないなら周りに聞け。自分だけで完結するな」
「はい……」
諭すように言われ、素直に反省する。
俺の独りよがりな行動のせいで、クラウス兄上やエスト兄上の足を引っ張ってしまった。自己嫌悪で、どうしても目線が下がってしまう。貴族としてこれではダメだとわかっているのに、情けなくてたまらない。
「あとな」
まだあった。
だが、先ほどとはなんだか声のトーンが違っていた。
さっきまでの冷徹極まりない極寒の声が、今度はグツグツと煮えたぎるマグマのような、別ベクトルの熱い怒りに変わっている。
俺が恐る恐る顔を上げると――そこには、完璧な「般若」が降臨していた。
「父上やクラウスにあげる前に、まず俺にその案をよこせ。お前が王太子殿下に面白そうな案を上げたせいで、その考察ができる地域は今やてんやわんやの大騒ぎだ」
「え」
「この! 決算期の! クッソ忙しい時期に!!」
「ひえ!」
「わかるか?! 貴族としても商人としても、この決算期に王族から直接命令が下った俺たち領地持ちの気持ちが!! 急な実験依頼をされたんだぞ!! 急ぎじゃないとか言われても、王族の命令をないがしろにできるかってんだ!! せめてあと二ヶ月、いや二週間!! 早いか遅いかで、全っっっ然忙しさが違ったんだよ!! おかげで、ますます眠らずに済んでいるがな!!」
「申し訳ありません!!」
俺は座ったままだが、頭を深く深く下げた。もしここが馬車の中でなく我が家なら、迷わず床に額をこすりつけて土下座していただろう。
エスト兄上は、コントロールできないスキル『夢』を恐れている。眠れば、その代償としていつ視覚や足の自由を失うかわからないという、壮絶な恐怖と戦っている人だ。
だから普段から極力眠りたくないし、実際あまり眠れない。
それなのに、俺の軽率な奏上のせいで、兄上はただでさえ削られている大切な睡眠時間――いや、起きていられる貴重な時間すら、激務で限界まで削られる羽目になったのだ。
しかも、他の領地にまでとんでもない大迷惑をかけてしまっている。本当に、弁解の余地もない。
「王都にいる連中と、地方にいる俺たちとでは、時間の流れも状況もいろいろ違うんだ。奏上する前に、周囲にどれだけ影響があるか、少しは考察してからにしろ。先にこっちに持ってきてくれてりゃ、タイミングをいくらでもずらせたんだからな」
「はい……」
「はー……」
今日一番大きな、魂の抜けるようなため息をつく兄上。
見るからに「頭痛が痛い」という表情でこめかみを押さえている姿に、俺はただ縮こまって頭を下げることしかできない。
「しかも、お前が余計な有能さを示したせいで、縁談がてんこ盛りだ。こんのクソ忙しいときに、釣書が山のように届いたからな。しかも一気に来たかと思えば、こまごまと後続組もやってきて、いちいち対応に時間を取られる。いくらお前のフォローとはいえ、一瞬、お前に対して本気の殺意が湧いたぞ」
ひくっ。
無意識に、喉の奥から変な引きつった音が出た。 兄上の眼光は、濁った鈍い色をしていながら、俺の眉間を射抜くほど鋭かった。
怖い。マジで殺される。
「というわけで、クソめんどくさいので、今日から俺がお前の婚約者だ」
「え」
「お前に拒否権はない。ウィルに男でも女でも、誰か一人でもいれば少しは時間稼ぎができたんだが。……で、お前、恋人は?」
「いません……」
「だろうな。だから俺がお前の婚約者だ。仮のな。とりあえず、お前の相手が正式に決まるまでの虫除けだ」




