第64話 二階堂家は、将軍の晴れの日にも支度が終わらない
建保七年(1219年)、正月二十七日。鎌倉の二階堂家。
宗直は、二つの包みを前に困っていた。
どちらも、同じような布で包まれている。
一つは光成が持ってきた物。
もう一つは行嗣が持ってきた物だった。
「これは、どちらのだ」
「三郎のです」
ふみが答えた。
「では、こちらが次郎か」
「いいえ。そちらも三郎のです」
宗直は二つを見比べた。
「次郎のは?」
「もう、おりんが渡しました」
「いつ?」
「あなたが、その二つを並べている間に」
宗直は、手の中の包みを見た。
分けてやろうと思っただけだった。
ふみが一つを受け取った。
「こちらは、しづが持ってきた物です。あなたは、まずご自分の支度を」
「俺の支度は、ほとんど済んでいる」
ふみは夫の肩へ手を伸ばした。
衣の折れたところを直し、背中を軽く払った。
「これで、もう少し済みました」
*
その日は、将軍の源実朝が鶴岡八幡宮へ参る日だった。
昨年、朝廷から右大臣という高い役職を授けられた実朝は、その就任を祝う儀式を行う。
行嗣は、御所での用事を済ませてから、八幡宮の方へ向かう予定だった。宗直と光成も、それぞれの役目を果たすため、途中まで一緒に出ることにしている。
出かける前に母の家へ顔を出そうと集まったところ、それぞれに忘れ物や頼まれ事が見つかった。
いつの間にか、部屋の中には包みと衣が増えていた。
そこへ、あやが入ってきた。
昨年、北条時景に嫁いだあやは、今は北条家で暮らしている。
今日は夫とともに早くから出かけていた。
時景は義時のもとで政務や人の手配を学んでおり、この日は儀式に関係する連絡の仕事があった。
あやも途中まで同行し、時景が御所の方へ向かったあと、母の家へ立ち寄ったのである。
「三郎兄」
あやは、行嗣の横へ座った。
「右大臣になったのは、去年でしょう」
「そうだ」
「お祝いは、今日なの?」
「役職を授けられることと、それを祝って参拝することは、別なんだ」
行嗣は、持っていく物を確かめながら答えた。
「鎌倉殿だけがお参りするのではなく、京から来た方々や、御家人たちも加わる。だから、その支度が要る」
御家人とは、将軍に仕える武士たちのことだ。
あやは、部屋を見回した。
「三人出かけるだけでも、これだけ支度があるものね」
「俺は、もう済んでいる」
光成が言った。
おりんが夫を見た。
「では、庭へ出ないで、ここにいてください」
「少し、戸の具合を見ようと思っただけだ」
「昨日も動いておりました」
「今日は、少し引っかかっている」
「お帰りになってから、見ていただけますか」
光成は戸へ目を向けた。
行嗣にも、確かに少し傾いて見えた。
けれど、兄が今それを直し始めると、用意した衣を汚すことになる。
光成は腰を下ろした。
「帰ってからにする」
おりんが、夫の隣へ包みを置いた。
「お願いします。帰ってからなら、私も手伝いますから」
光成はうなずいた。
今度は、戸を見なかった。
*
しづが持ってきた包みには、行嗣の着替えが入っていた。
もう一つは、御所へ持っていく書付だった。
行嗣は二つを別々に置いた。
「こちらを先に持って――」
「それは、着替えです」
しづが言った。
行嗣は手を止めた。
「ああ」
「御所へお届けするのは、こちらですね」
「分かっている」
「今、どちらをお取りになりましたか」
行嗣は包みを置き直した。
しづが笑った。
「包みの色が似ているからですよ。目印をつけましょうか」
「開けば分かります」
「道の途中で、全部開くおつもりですか」
行嗣は少し考えた。
「目印をお願いします」
しづは短い紐を取り出し、着替えの包みへ結んだ。
結び終わると、紐の端を指でそろえた。
「こちらが私の用意した方です」
「はい」
「お帰りになったら、お返しください」
「着替えを?」
「包みと紐を。衣は、お使いくださいませ」
行嗣の返事に、しづはまた笑った。
二人の向かいで、あやが顎に手を当てた。
「三郎兄。今日は、紙のことと衣のことを、一緒に考えない方がよいと思う」
「今、そうしている」
「しづが、分けてくれたのよ」
行嗣は、妻を見た。
「ありがとうございます」
しづは、少しだけ目を伏せた。
「どういたしまして」
あやは、その様子を見て笑った。
「小太郎様も、今朝、同じようなことをしていたよ」
「時景殿が?」
行嗣が顔を上げた。
「持っていく文と、あとで届ける文を、別々に置いていたの」
「それなら、間違えないだろう」
「うん。でも、私が片方を持とうとしたら、そちらはまだ渡してはいけない方だって」
「それは、時景殿が正しい」
「だから、私も聞いたの。いつ渡す文なのかって」
「それで?」
「ちゃんと教えてくれたよ。渡す相手によって、順番があるんだって」
行嗣はうなずいた。
「大事なことだ」
「小太郎様もそう言ってた。だから、三郎兄にも、先に聞いた方がよいと思ったの」
しづが笑った。
「時景殿と、よくお話しになるのですね」
「うん。小太郎様は、聞けば教えてくれるし、私が変なことを言うと笑うの」
「変なことを言っている自覚はあるのか」
行嗣が尋ねた。
「あとで分かることもあるよ」
あやは平然と答えた。
行嗣は、何と言えばよいのか分からなかった。
*
庭では、与一が父の履物を並べていた。
光成とおりんの息子である。
隣で、妹の梅が言った。
「それ、父上のじゃないよ」
与一は手を止めた。
「こちらだろう」
「父上のは、さっき泥を落としていた方」
二人は並んだ履物を見た。
与一が、光成を呼んだ。
「父上。どちらですか」
光成が庭へ出かけたところで、おりんが声をかけた。
「履物を見るだけですよ」
「分かっている」
光成は戸から離れて、子どもたちのところへ行った。
与一が二つを指した。
父は片方を取った。
「これだ。ありがとう」
梅が兄を見た。
「当たった」
「当てる話ではないだろう」
与一は、もう片方を脇へ寄せた。
「次は、どなたの物か聞いてから並べる」
光成が息子を見た。
それから、おりんを見た。
おりんは笑っていた。
「あなたも、聞いてからなさると早いことがありますね」
「俺は、何もしていないぞ」
「戸を直そうとしておりました」
「だから、まだ何もしていない」
「ええ。今日は、間に合いました」
*
ちよは、皆の支度を一度に手伝おうとはしなかった。
行嗣には、持ち物を置ける場所を空けた。
ふみには、衣をたたむ布を渡した。
おりんに頼まれた物は、家人に持ってきてもらった。
皆がそれぞれの仕事を分かっている。
ちよが一つずつ指図する必要は、もうなかった。
行嗣が書付を確かめているのを見て、ちよは声をかけた。
「三郎」
「はい、母上」
「今日は、八幡宮にも行くのですね」
「ええ。御所での用事を終えてからですが」
「実朝様も、お出ましになるのでしょう」
「もちろんです。今日は鎌倉殿の儀式ですから」
「そうですね」
実朝の名を聞くと、ときどき直成のことを思い出した。
夫は、あの若い将軍の行く末を案じていた。
いつだったか、実朝のことを話しながら、急に黙り込んだことがある。
そのあと、直成はちよに、いつもとは違う話をした。
自分が知っているはずの先の出来事について。
それも、すべてを覚えているわけではないことについて。
ちよは、夫の言葉を今でも覚えていた。
実朝は、いつか鶴岡八幡宮で命を落とす。
ただ、それがいつのことなのかは、直成にも分からなかった。
その後も年月は流れた。
実朝は成長し、将軍として政務を行い、朝廷から右大臣に任じられるまでになった。
今日も、その晴れの日を迎えている。
ちよは、ふと胸の奥が冷えるのを感じた。
いつかが今日とは限らない。
ちよは小さく息を吐いて、その考えをしまった。
ちよは、行嗣の衣を見た。
「今日は人も多いでしょう。御所での用事が済んでも、慌てて動かないようにね」
「はい」
「お役目が終わったら、しづにも知らせてあげなさい」
「分かりました」
行嗣は、包みの紐をもう一度確かめた。
ちよは、それを見届けてから、ほかの者の支度へ目を向けた。
直成さん。
あなたが案じていた実朝様は、今日もお元気でいらっしゃるのですよ。
そう心の中で語りかけた。
*
その途中で、あやが小さな紙を差し出した。
「母上。まつ姉への文は、こちらに置いておくね」
まつは、夫の藤原季成と京都で暮らしている。
行嗣としづが書いた返事に、あやも近況を加えていた。
「何を書いたの?」
ちよが尋ねた。
「おじさんが飯を食べていったことと、今日は皆で出かけること」
宗直が顔を上げた。
「俺たちの支度のことまで書いていないだろうな」
「まだ書いていないよ」
「まだ?」
「帰ってきてから、今日の話も書こうと思って」
光成が行嗣を見た。
「三郎。話が長くならぬようにしろよ」
行嗣は、しづの結んだ紐を確かめていた。
「どこまで書くかは、姉上が何を知りたいかによります」
あやが、すぐに答えた。
「まつ姉は、家の話を知りたいでしょう」
行嗣はうなずいた。
それなら、今日も書くことが多そうだった。
「そういえば、あや」
ちよが尋ねた。
「時景殿とは、どこで落ち合うの?」
「小太郎様は、御所の方のお仕事が終わったら、こちらへ知らせをくださるって」
「それなら、帰りは一緒なのね」
「うん。遅くなるようなら、私が先に北条家へ戻ってもよいって言ってくれたけど」
「どうするの?」
「今日は、こちらで母上たちと待っていようと思うの」
ちよはうなずいた。
「そう。では、夕方までゆっくりしていらっしゃい」
「小太郎様にも、帰ったら今日のことを話すね」
「何を話すの?」
「三郎兄が、着替えを御所へ届けそうになったこと」
「届けてはいない」
行嗣が言った。
あやは笑った。
「だから、届けそうになったこと」
しづも笑っていた。
*
宗直が立ち上がった。
「では、出よう。忘れた物はないか」
「太郎兄、それは自分にも聞いて」
あやが言った。
宗直は、腰と袖を確かめた。
ふみが戸口までついてきた。
「戻ってからの用事は、こちらで済ませておきます」
「だが、薪が――」
「運んでもらいました」
「門の――」
「家人に頼みました」
宗直は妻を見た。
ふみも夫を見た。
「ほかには?」
「……いや」
「では、行ってらっしゃいませ」
ふみが夫の袖の端を直した。
先ほど直したところとは、違う場所だった。
「人の支度ばかり見て、ご自分のことを後にしないでくださいね」
宗直は、その手が離れるのを待った。
「分かった」
光成は、庭へ一歩出た。
その目が戸へ向いた。
おりんは何も言わなかった。
光成は自分で顔を戻した。
「帰ってからだな」
「はい。覚えていてくださるとうれしいです」
行嗣も立ち上がった。
書付の包みを持ち、着替えの方へ手を伸ばす。
しづが先に取った。
「門まで、お持ちします」
「私が持てます」
「存じております。私も、門まで歩きたいのです」
行嗣は手を引いた。
「では、一緒に」
*
外へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。
門の向こうを、人が行き来している。
二階堂家だけが忙しい日ではなかった。
御所へ向かう者、八幡宮の方へ足を運ぶ者、それぞれの用事を続ける者。
光成が、空を見上げた。
「冷えるな」
「帰りは、暗くなるでしょうか」
しづが行嗣へ尋ねた。
「御所での用事が、どこまでかかるかによります。それから八幡宮へ向かうので――」
行嗣は説明を続けかけた。
しづは、その顔を見た。
「遅くなるかもしれない、ということですね」
「はい」
「では、そう思って待っております」
行嗣はうなずいた。
しづから包みを受け取った。
紐のついている方を、もう一度見た。
「こちらは着替えです」
「はい」
「こちらが書付です」
「はい。よくできました」
あやが吹き出した。
行嗣は妹を見た。
しづも笑っていた。
それで、行嗣も笑った。
*
ちよは、門の内側から三人を見た。
宗直が先に歩き、光成が隣へ並んだ。
行嗣が二つの包みを持って、その後へ続く。
出かける前には、あれほど部屋を行き来していたのに、門を出ればすぐだった。
ふみが、夫の背へ声をかけた。
「道の途中で、頼まれ事を増やしすぎないでくださいね」
宗直が振り返った。
「今日は、御所へ向かうんだぞ」
「だからです」
光成が笑った。
おりんも声をかけた。
「あなたも、途中の溝へ入らないでください」
「今日は入らぬ」
「今日は、ではなく」
光成は片手を上げた。
行嗣は、何か言われる前に振り返った。
しづが手を振った。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
その返事は、すぐに出た。
三人は、道を進んでいった。
ちよは、しばらくその背中を見送っていた。
三人とも、もう自分の役目を持っている。
父親になった者もいる。
それでも、門を出ていく後ろ姿を見ると、幼いころと変わらないところがあった。
「母上」
あやが呼んだ。
「どうしたの?」
「いいえ」
ちよは、娘を見た。
「皆、大きくなったと思って」
あやは、道の先を見た。
「三郎兄も?」
「ええ」
「包みを間違えそうになっていたけど」
ちよは微笑んだ。
「そこは、もう少しですね」
あやも笑った。
*
あやが門から戻りながら言った。
「出かける人が出たら、片づける人の仕事が残ったね」
部屋には、開いた包みの布や、使わなかった衣が置かれている。
ふみが笑った。
「そうね。まず、こちらを片づけましょう」
おりんが布を持ち上げ、しづは残った紐をまとめた。
ちよも、空いた場所へ座った。
「済んだら、皆で少し休みましょう」
あやが文の紙を取り上げた。
「まつ姉への続きは、そのあとね」
「まだ、帰ってきていないでしょう」
しづが言った。
「支度の話は、もう書けるよ」
ふみとおりんが顔を見合わせた。
しづも笑った。
ちよは、あやの置いた紙へ目を向けた。
「では、出かけた三人のことだけではなく、こちらにいた人のことも書いておいてね」
あやは筆を取った。
「そちらの方が、長くなりそう」
「それなら、まつも読むのが楽しみでしょう」
ちよが答えると、あやは少し考えてから書き始めた。
その間に、しづは行嗣の座っていたところを片づけた。
持ち物は、二つとも持っていった。
確かめて、ひとりで小さく笑った。
ちよは、家の中を見渡した。
出かけた者が帰ってくるまで、ここには、いつもどおりの暮らしがある。
帰ってきたら、温かいものを食べさせよう。
そう思って、ちよは立ち上がった。
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登場人物紹介
源実朝(みなもとのさねとも/1192〜1219年)
鎌倉幕府の第三代将軍。建保六年(1218年)に右大臣に任じられ、翌年正月二十七日に鶴岡八幡宮で拝賀の儀式を行った。
二階堂宗直/太郎
直成とちよの長男。二階堂家の当主。人の世話を焼くのが好きで、自分の仕事を増やしてしまうことがある。妻はふみ。
二階堂光成/次郎
直成とちよの次男。土地や水路、現場の問題に強い。妻はおりん。息子の与一と娘の梅がいる。
二階堂行嗣/三郎
直成とちよの三男。大江広元のもとで文書や訴訟の仕事に携わる。妻はしづ。考え始めると、説明が長くなる。
北条時景/小太郎
あやの夫。北条一門につながる家の青年。現在は北条義時のもとで政務や交渉を学んでいる。後に北条泰時の側近となる。本作独自の架空の人物。
あや
直成とちよの末娘。建保六年(1218年)に時景と婚姻。商人や船、品物の流れに関心が強い。夫とは互いに意見を交わし、軽口も言い合う仲。
ふみ・おりん・しづ
それぞれ宗直・光成・行嗣の妻。夫たちの仕事を理解しながら、家族の暮らしを支えている。




