幕間33 ちよは、直成が守りたい鎌倉と家族の話を聞く
正治二年(1200年)、冬。
鎌倉、二階堂家。
直成さんが帰ってきたとき、次郎は庭にしゃがんでいた。
土を掘り、細い溝をつくっている。
ちよは、少し前に注意したばかりだった。
そこへ水を流したら、父の帰ってくる道がぬかるむ。
次郎は分かったと答えた。
分かったうえで、溝を曲げたらしい。
「父上、そこは踏まないで」
門を入った直成さんが足を止めた。
「どこだ」
「そこ」
「僕の足の下か」
「まだ踏んでない方」
直成さんは片足を上げたまま、庭を見下ろした。
ちよはあやを抱き直し、戸口から声をかけた。
「次郎。お父上が帰ってこられる道は、どこに残したの?」
次郎が指さした。
細い、細い土の道だった。
「僕より、鶏が通るのに向いているな」
直成さんが言うと、まつが戸口へ出てきた。
「父上、こっちから」
指した先には、太郎が置いた荷があった。
直成さんは庭と戸口を交互に見た。
「今日は、家に入るのが難しい」
ちよは笑い、太郎を呼んで荷を動かしてもらった。
けれど、ようやく中へ入った夫が履物を脱ぐとき、手が止まった。
片方を脱いだまま、もう片方を見ている。
「どうなさいました?」
直成さんは顔を上げた。
「いや。少し、冷えた」
ちよには、その返事だけでは分からなかった。
*
梶原景時が亡くなったという知らせは、すでに鎌倉へ届いていた。
景時は、亡き頼朝に重く用いられた武士だった。
昨年、頼朝が亡くなったあと、多くの御家人――鎌倉の主君に仕える武士たちが、景時を訴えた。
やがて景時は鎌倉を離れた。
そして今年、駿河、今の静岡県の辺りで、一族とともに命を落としたという。
ちよが知っているのは、直成さんや、家へ来る人から聞いた話だった。
景時の言い分を、自分で聞いたことはない。
ただ、その名なら家の中でも聞いていた。
誰へ確かめるか。
誰に伝えておくか。
直成さんが仕事の話をするとき、その短い会話の中に、景時の名が入ることがあった。
近ごろは、それがない。
景時のことを話すときは、いつも、亡くなったことの話だった。
*
夕食のあと、太郎が練習した文字を父へ見せた。
三郎も、自分の紙を持ってきた。
太郎の紙には文字が並んでいた。
三郎の紙には太い線と細い線、それから丸い墨の染みがあった。
「これは、何と書いた?」
直成さんが尋ねる。
「父上」
三郎は太い線を指した。
「そっちは母上」
今度は丸い染みを指す。
次郎がのぞき込んだ。
「母上の方が大きい」
「墨が落ちたのよ」
まつが言った。
「母上」
三郎は譲らなかった。
ちよが笑うと、直成さんも笑った。
「では、二人とも覚えておこう。僕たちの名前だからな」
夫の口元が緩んでいる。
ちよはその顔を見て、庭で止まっていた手を思い出した。
*
子どもたちが寝静まり、あやも家人に見てもらって、部屋には夫婦だけになった。
直成さんは翌日持っていく書付を束ねていた。
紙をそろえ、紐を巻く。
一度結びかけて、ほどいた。
「直成さん」
「はい」
「今日は、何かありましたか」
「なぜ?」
「帰ってきたとき、履物を片方だけ脱いで止まっていました」
「そんなところを見ていたのですか」
「目の前でしたから」
ちよは夫の指へ目を落とした。
「今も、二度ほど結び直しています」
直成さんは紐を見た。
それから、紙の上へ置いた。
「景時殿へ確かめれば済んだことを、今日は、誰へ聞くか相談していました」
「聞く方は、決まりましたか」
「ええ。明日、確かめます」
直成さんは少し黙った。
「ただ、前なら景時殿に聞こうと言っていたなと思ったのです」
「この家でも、お名前をよく聞きました」
夫が妻を見る。
「近ごろは、亡くなられた話ばかりになりましたね」
直成さんはゆっくりうなずいた。
ちよは、膝の上で手を重ねた。
「景時殿は、どんな方だったのですか」
「仕事のできる方でした」
「怖い方だとも聞きました」
「そう感じた人も、多かったでしょう。僕も、話すときには言葉を選びました」
直成さんは紙の角をそろえた。
「ですが、頼朝様が知りたいことを調べ、伝え、決まったことを実行する。その力は確かにあった。有能な補佐役でした」
「頼朝様を、お助けしていたのですね」
「ええ。そして、頼朝様あっての景時殿だったとも思います」
*
「頼朝様がおられなくなったから、恨まれたのですか」
ちよが尋ねると、直成さんは首を振った。
「恨みは、前からあったのでしょう」
「前から?」
「御家人たちは、皆が同じことを望んでいるわけではありません。土地を得たい人もいる。手柄を認めてほしい人もいる。隣の家との争いに勝ちたい人もいる」
土地の争いなら、ちよも何度も話を聞いていた。
「景時殿が頼朝様へ報告すれば、不利になる人がいる。頼朝様の命を受けて厳しく言えば、腹を立てる人がいる」
「命じた頼朝様より、目の前の景時殿を恨むのですね」
「そういうこともあったと思います。仕事ができ、頼朝様に近かったからこそ、恨みが集まったのでしょう」
直成さんは言葉を切った。
「もちろん、景時殿ご自身の言い方や振る舞いが、その恨みを強めたこともあったと思います」
「何でも正しかったとは、言えないのですね」
「ええ。僕も、意見が合わないことはありました」
ちよは、夫の顔を見た。
「それでも、頼朝様がおられる間は、一緒に働けた」
「頼朝様が景時殿を必要とし、ほかの御家人も、その判断を重く見ていたからでしょう」
直成さんの手が止まった。
「その方が亡くなられた。残っていた恨みを、もう抑えきれなかった」
*
「では、今は誰が、皆の言い分を聞いているのですか」
「頼家公がおられます。広元殿も、ほかの方々も働いています」
頼家は、頼朝のあとを継いだ息子だった。
広元は、頼朝のころから鎌倉の政務を支えてきた人である。
「けれど、御家人たちは、それぞれ親しい者や縁のある家へ話を持っていく。自分たちの望みを通すために、味方を集める」
「皆、違う方を向いているのですね」
「鎌倉が、ばらばらになりかけているように見えます」
直成さんの声は低かった。
「それを、北条が束ねようとしている」
「義時殿も?」
「ええ。お父上の時政殿もです」
ちよは、家へ来たときの義時を思い出した。
直成さんと話し込んでいるうちに、子どもたちが寄ってくる。
仕事の話が終わらないまま、食事になることもあった。
「頼家公は、それをどう思っておられるのでしょう」
「ご自分の考えで、鎌倉を動かしたいのでしょう。その思いは、分かります」
「お父上のあとを継いだのですものね」
「はい。ただ、頼朝様の命がなぜ通ったのか、その下にどれほど多くの話し合いがあったのか。そこまでは、まだ十分に見えておられないように思うのです」
直成さんはちよへ向き直った。
「頼朝様も、望んだことがすべて、そのまま通ったわけではありません」
「帰ってきてから、また考えておられる夜もありましたね」
「ええ。御家人の土地も、家族も、恨みも、皆ここにある。それを確かめて、折り合えるところを探していた」
夫の指が、紙の端を押さえた。
「僕は、それを失いたくないのです」
*
「ちよさん。僕は、頼朝様とつくってきた鎌倉を守りたい」
夫の声が、はっきりした。
「一緒に働いてきました。争いが起きれば話を聞き、土地を確かめ、人を集め、何度も決め直した。頼朝様がおられなくなったからといって、その仕事まで失いたくはない」
ちよはうなずいた。
「義時殿も、そう思っておられるのですね」
「ええ。だから、一緒に働いています」
「よく言い合ってもおられますけれど」
「守り方まで、いつも同じとは限りませんから」
「そのあと、一緒に飯を食べておられる」
直成さんの口元が少し緩んだ。
「あなたが、話の途中でも膳を運んでくださるので」
「いつ終わるか分かりませんもの」
「それは、義時殿にも言われました」
二人で少し笑った。
そのあと、直成さんは笑みを収めた。
「ですが、鎌倉だけを考えていればよいわけでもない」
ちよは直成さんを見た。
「僕も、頼朝様に用いていただいていた者です。僕のした仕事で、不利になった人もいるでしょう」
「あなたも、恨まれているかもしれない」
「ええ。景時殿のことを、他人事とは思えません」
ちよの手が膝の上で動いた。
直成さんは、その手へ自分の手を重ねた。
「この家も、守りたいのです。ちよさんも、子どもたちも」
*
ちよは、夫の手を握った。
「これから、何か起こると思っておられるのですか」
直成さんの目が、妻へ向いた。
ちよは声を落とした。
「あなたが、覚えていることの中に」
隣の部屋からは、何も聞こえなかった。
直成さんは少し待ってから答えた。
「僕の覚えている話では、このあとも、北条とほかの御家人たちの争いが続きます」
「景時殿だけでは、終わらないのですね」
「はい」
夫の指に力が入った。
「頼家公も、やがて鎌倉を退けられ、そのあと……命を奪われます」
ちよは、握っていた手を見た。
頼朝の息子である。
その人まで失うと、夫は覚えている。
「必ず、そうなるのですか」
「分かりません。僕がここで働いてきたことで、変わったこともあるでしょう。覚え違いもある」
直成さんは首を振った。
「誰が、いつ、何を決めたのか。細かなことまで覚えているわけではありません」
「でも、心配なのですね」
「ええ。起きてから、知っていたのにと思うのは……」
夫の言葉が止まった。
ちよは、その先を急がなかった。
「私に、少しずつ話してください」
直成さんが顔を上げた。
「少しずつ?」
「はい。今、何を見て、何を心配しているのか。それに関わることを、覚えているのなら、それも」
ちよは夫の指を握り直した。
「私には、御所の中は見えません。でも、この家のことなら、一緒に考えられます」
直成さんは、しばらく妻を見ていた。
「あなたを、怖がらせたくありませんでした」
「知らないまま、直成さんの様子だけが変わっていくのも、怖いです」
夫の肩が、わずかに下がった。
「……そうですね」
*
「この家を守るために、何を考えているのですか」
ちよが尋ねた。
直成さんは、置いてある書付へ目を向けた。
「義時殿との結びつきを、僕たちの代だけで終わらせたくはありません」
「子どもたちにも、ということですか」
「ええ。いずれ、子や孫の縁組も考えたい。北条一門と、家同士の縁を結ぶことを」
ちよは少し黙った。
「義時殿には、もう話したのですか」
「まだです。先に、ちよさんへ話したかった」
「そうですか」
「僕たちは、同じものを守ろうとする同志です。ちよさんや子どもたちとも、長く付き合ってくださっている。その信頼を、次の代へつなぎたい」
直成さんは、妻の手を離さずに続けた。
「家同士の縁があれば、争いの中で、この家をどう扱うか考えてもらえる。それは、僕たちが生きていくためにも大きい」
「縁を結べば、北条と争う人からは、こちらも同じ側に見えるでしょう」
「ええ。その覚悟も要ります」
ちよは夫を見た。
「それでも、結びたいのですね」
「はい。僕は、義時殿とともに鎌倉を守りたい。そして、その中で、この家を残したい」
ちよは息を吐いた。
軽くうなずける話ではなかった。
けれど、目の前の夫も、それを分かって話しているように見えた。
「相手の家を、私も知りたいです」
「もちろんです」
「子どもたちが、そこでどんな暮らしをするのかも。家のために縁を結ぶのなら、その家で暮らす人のことまで考えたい」
直成さんはうなずいた。
「一緒に考えてください」
「はい」
ちよは、握った手を見下ろした。
「それから、太郎や次郎にも、話すときは二人で話しましょう。あの子たちの子のことまで考えるのなら、なおさらです」
「ええ」
「あなたは説明が長くなりますから」
直成さんが目を上げる。
「今夜も長かったですか」
「長かったです」
「すみません」
「でも、聞けてよかったです」
ちよがそう言うと、夫は黙った。
その手が、もう一度、ちよの手を握った。
*
隣の部屋から、小さな声がした。
「母上」
三郎だった。
ちよが立つと、直成さんも腰を上げた。
「僕も行きます」
戸を開けると、三郎が寝具の上に座っていた。
まつは眠っている。
次郎は足を大きく広げていた。
その足が、三郎の場所へ入り込んでいる。
「兄上が来る」
三郎が訴えた。
直成さんは、次郎の足をそっと戻した。
「庭では僕の道を狭くして、夜は三郎の場所を狭くしているのか」
ちよは口元を押さえた。
次郎は何も知らずに眠っている。
三郎が父の袖をつかんだ。
「父上、ここ」
「ここに座るのか」
三郎がうなずく。
直成さんは寝具の端へ座った。
「少しだけな」
ちよは、三郎へ布をかけ直した。
子どもは父の袖を握ったまま横になった。
直成さんが、その小さな手を見ている。
ちよも、夫の隣へ座った。
明日の書付は、まだ結び終わっていなかった。
義時と話すことも、太郎たちと考えることも、これからだった。
やがて、三郎の指が緩んだ。
直成さんは袖を抜こうとして、また握られた。
ちよと目が合う。
夫が声を落とした。
「家に入るより、ここから出る方が難しい」
ちよは笑いをこらえ、三郎の手をそっと包んだ。
父の袖が外れる。
その代わり、今度はちよの指が握られた。
直成さんが隣へ座り直した。
ちよは夫を見た。
夫は、そのまま待ってくれた。
【歴史上の人物】
梶原景時
源頼朝に重く用いられた御家人。頼朝の死後、御家人たちの訴えを受けて鎌倉を離れ、正治二年(1200年)、駿河で一族とともに最期を迎えました。




