第62話 行嗣は、妻の話をするのが苦手である
建保七年(1219年)、正月。鎌倉。
行嗣が御所から帰ると、妻のしづが門の内側で待っていた。
片手には、まだ何も入っていない籠がある。
「お帰りなさいませ。三郎様」
「ただいま戻りました。どこかへ?」
「ええ。お母上のところへ。お誘いしようと思って、お待ちしていました」
「それなら、この書付を置いてから――」
「お仕事は終わりましたか」
「今日の分は」
「では、置いたら戻ってきてくださいね」
「もちろんです」
「前にも、そうおっしゃいました」
行嗣は口を閉じた。
書付を置くつもりで部屋へ入り、ほかの紙に目が留まり、気づけばしづを待たせていたことがある。
一度だけではなかった。
「今日は戻ります」
「はい。今日は、私もついていきます」
しづはにこやかに言った。
逃げ道がなくなった。
*
その少し前。
行嗣は、鎌倉殿と呼ばれる将軍、源実朝の前に座っていた。
大江広元のもとで文書を扱うようになってから、御所へ書付を届けることも増えた。御所は、将軍の住まいであり、政務を行う場所でもある。
その日、実朝が確かめていたのは、土地をめぐって争う者たちの訴えだった。
「こちらは、前にも申し出た者か」
「はい。ただし、今回の訴えには、前の書付になかったことが加わっています」
「それは、いつからのことだ」
「そこは、まだ確かめられておりません」
行嗣が答えると、実朝は二つの書付を見比べた。
「では、古い方だけを見て答えてはならぬな」
「広元殿も、そのように申しておりました」
「確かめたことは、後から読む者にも分かるようにしておけ」
「承知しました」
実朝は書付を置いた。
廊下を歩く人の足音が聞こえた。外では、次の用件を待つ者が控えている。
昨年、実朝は朝廷の高い役職である右大臣に任じられた。
正月二十七日には、その就任を祝って鶴岡八幡宮へ参拝する儀式が予定されている。御所では日々の政務に加え、その支度も進んでいた。
行嗣が退出しようとすると、実朝が声をかけた。
「行嗣」
「はい」
「家の者は、息災か」
「はい。母も、兄たちも、変わりなく」
「まつは京で暮らしているのであったな」
「はい。先日も文が届きました」
実朝は小さくうなずいた。
「直成は、よく子どもの話をしていた」
行嗣の手が、膝の上で止まった。
父が亡くなってから、長い年月が過ぎている。
父の仕事を知る人から、その名を聞くことはあった。けれど、将軍の口から家での父の話が出ると、行嗣は今でも少し驚く。
「五人いたな」
「はい」
「今は、それぞれ何をしている」
仕事の報告とは違う問いだった。
行嗣は、どこから話すべきか考えた。
「長兄の宗直は、家の用事や、人から頼まれたことを引き受けております」
「忙しそうだな」
「はい。自分で引き受けた用事で忙しくなり、その途中で、また別の用事を引き受けます」
実朝が顔を上げた。
行嗣は、自分の言い方を振り返った。
「……よく人の面倒を見る兄です」
「それは分かった」
実朝の口元が緩んだ。
「次兄の光成は、田や水路を見て回っております。水がうまく流れないと聞くと、まず、その場へ行きます」
「文を読むより先にか」
「読むこともあります。ただ、読んでいる途中で出かけることがあります」
「なるほど」
「姉のまつは、京で夫の季成殿と暮らしております。子どもは千寿丸と、あさの二人です。文には、子どものことや、季成殿のことが――」
行嗣は、先日届いた手紙の内容を思い浮かべた。
どこまで話すと姉に叱られるだろう。
「どうした」
「姉に、話してよいか尋ねていないことがございました」
実朝は声を立てて笑った。
「では、それは聞かぬ」
「ありがとうございます」
「末のあやは?」
「昨年、北条時景殿に嫁ぎました」
「そうであったな。直成が、以前から気にかけていた縁談だった」
「はい。義時殿にも婚姻を取り持っていただきました」
実朝はうなずいた。
「それで、嫁いでからはどうしている」
「変わらず、品物のことをよく尋ねております。どこから来たのか、誰が運んだのか、同じ値なのに量が違うのはなぜか、と」
「北条の家でもか」
「はい。時景殿と一緒に、荷の受け渡しや商人の話を聞いているようです」
「時景は困っておらぬか」
「むしろ、一緒に調べているそうです」
実朝は笑った。
「よい夫婦になったのだな」
「はい」
「お前には、何を尋ねる」
「買った物について聞かれることが多いです」
「答えられるか」
「……帰ってから、確かめることがあります」
「先に聞いておけばよいのであろう」
「はい。あやにも、そう言われます」
実朝は、しばらく笑っていた。
それから、行嗣を見た。
「お前は?」
「私は、広元殿のもとで、訴えの書付や古い記録を――」
「それは今、聞いた」
「あ」
「家では、どうしている」
行嗣は背筋を伸ばした。
「妻のしづと、暮らしております」
「それも聞いている。二人で、うまくやっているか」
「はい」
答えはすぐに出た。
実朝は、少し待った。
行嗣も待った。
やがて実朝が言った。
「兄と姉と妹の話は長いのに、妻の話は、それだけか」
行嗣の耳が熱くなった。
*
「それで、何とお答えになったのですか」
二階堂家へ向かう道で、しづが尋ねた。
行嗣は籠を持って歩いていた。
空の籠なのに、持つ手に妙に力が入る。
「暮らしていて、困ることはないと」
「それは、ありがたいことですね」
しづはうなずいた。
うなずいたあとで、行嗣の顔を見た。
「ほかには?」
「よく、私のことを見てくださると」
「書付に目が向いているときなどですね」
「それだけではありません」
「では、何でしょう」
行嗣は考えた。
しづは、その様子を面白そうに見ている。
「私が話し終えるまで、聞いてくださいます」
「三郎様も、お聞きくださいますよ」
「しづ殿は、私が考えすぎていると、先へ進めてくださいます」
「今も、足を止めそうでした」
しづが袖を軽く引いた。
行嗣は歩き出した。
「それから――」
「はい」
「一緒にいると、楽しいです」
しづが前を向いた。
返事がなかったので、行嗣は横顔を見た。
「しづ殿?」
「それは、鎌倉殿にもお話しになりましたか」
「そこまでは」
「では、私が先に聞きましたね」
しづは、行嗣の袖から手を離した。
その代わり、籠を持っていない方の手を取った。
「参りましょう。皆様がお待ちです」
*
ちよの家では、宗直が積まれた薪を運ぼうとしていた。
ふみが、その前に立っている。
「それは、あとで皆で運びます」
「今、運んでおけば済むだろう」
「そう言って、来てから一度も座っていないでしょう」
「まだ、それほど――」
「門の戸を見て、家人の話を聞いて、薪を見つけました」
ふみは指を折った。
「次は、何を見つけるつもりですか」
宗直が庭へ目を向けた。
「探さなくてよろしい」
行嗣は、しづと顔を見合わせた。
ちょうどそこへ、光成とおりんが入ってきた。
光成の履物には泥がついている。
「次郎兄、今日はどちらへ?」
「途中で、溝に水がたまっていてな」
おりんが続けた。
「見つけたので、見ておりました」
「少しだ」
「待っている人には、少し長うございました」
光成は返事をせず、履物の泥を落とし始めた。
そこへ、あやがやってきた。
昨年、北条時景に嫁いだ末妹は、今日は夫とともに母の家を訪ねていた。
時景は宗直たちへの挨拶を済ませ、家人と荷の受け渡しについて話している。
あやは行嗣の籠をのぞいた。
「何を持ってきたの?」
「まだ何も入っていない」
「どうして籠だけ持ってきたの」
「お母上が、持たせたい物があるとおっしゃっていましたから」
しづが答えると、あやは納得した。
「三郎兄にも、ちゃんと伝えた?」
「道で話しました」
行嗣は籠を見た。
確かに聞いた。
そのあと、御所での話をしているうちに忘れていた。
「今、思い出したでしょう」
「あや」
「顔に出てる」
時景が家人との話を終えて戻ってきた。
「どうしたの?」
「小太郎様。三郎兄が、籠に何を入れるか忘れたそうです」
「まだ忘れたとは言っていない」
行嗣が答えた。
時景は、籠を見た。
「では、今は覚えていらっしゃるのですね」
「……母上に確かめます」
あやが笑った。
時景も、少し笑った。
奥から、ちよの声がした。
「皆、そこで立っていないで入っておいで。まつからの文も、もう一度読んでほしいの」
家へ入ると、宗直もようやく座った。
ふみはその隣へ腰を下ろした。
光成が行嗣を見た。
「御所は、忙しいか」
「はい。日々の用件と、八幡宮へ参られる支度が重なっています」
「鎌倉殿には、お会いしたの」
ちよが尋ねた。
「はい。皆のことを聞かれました」
あやが顔を上げた。
「私のことも?」
「五人とも」
「何て話したの」
行嗣は、順に説明した。
宗直のところで、ふみがうなずいた。
光成のところで、おりんがうなずいた。
まつのところでは、ちよが笑った。
「本人に聞いてから話そうとしたのね。それは、まつも喜ぶでしょう」
「あやのことは、時景殿に嫁いだことと、品物の来た道や量をよく確かめることをお話ししました」
「小太郎様のことも?」
「一緒に荷のことを調べていると」
あやは、嬉しそうに時景を見た。
「本当だものね」
「そうだね」
時景が答えた。
「三郎兄は?」
「私の仕事のことは、すでにご存じでした」
「しづ姉のことも話した?」
「……話した」
しづが膝の上で手を重ねた。
「困ることはないと、お答えになったそうです」
光成が行嗣を見た。
宗直も行嗣を見た。
二人とも、何か言いたそうだった。
ふみが先に言った。
「それで、おしまい?」
「いや。そのあとも話しました」
「何を?」
行嗣は答えに詰まった。
しづが、少し笑った。
「そのあとは、私がお聞きしました」
今度は、誰も続きを尋ねなかった。
あやだけが、二人を交互に見ていた。
*
まつの文は、行嗣が読んだ。
京で暮らす姉は、息子の千寿丸と娘のあさの様子を、細かく書いていた。
千寿丸が父の真似をして、書付の前に座りたがること。
あさは、その隣に座りたがること。
二人とも座ったため、肝心の季成が座る場所を失ったこと。
光成が笑った。
「季成殿は、どうした」
「姉上の文には、別の場所へ移ったとあります」
「追い出されたのか」
「次には、二人ともついてきたそうです」
「逃げられなかったか」
しづが口元を押さえた。
行嗣は続きを読んだ。
『季成様が二人を膝へ乗せてくださったので、私が代わりに座りました。書付は少しも進みませんでしたが、皆、機嫌よく過ごしました』
「まつ姉、勝ったね」
あやが言った。
「誰と勝負していたのよ」
ちよが笑う。
「座る場所を取れたでしょう」
「仕事をするつもりだったのは、季成殿だぞ」
宗直が言うと、ふみが夫を見た。
「仕事が進まなくても、よい日だったのでしょう」
宗直は少し考えたあと、庭の薪から目を戻した。
「……そうだな」
行嗣は文を畳みかけた。
すると、しづが手を伸ばした。
「最後に、もう一行ありますよ」
紙を開き直す。
端の方へ、まつの字が小さく続いていた。
『三郎は、しづのお話も、きちんと聞いていますか』
行嗣は、その一行を黙って見た。
「何て書いてあるの」
あやが身を乗り出す。
「三郎のことですね」
しづは、もう読んでいた。
「京にいても、姉上には分かるのですね」
「私は、話を聞いている」
「はい。存じております」
しづの返事は優しかった。
それなのに、あやは笑い出した。
宗直も笑った。
光成は、行嗣の肩をたたいた。
「返事を書け。聞いていると」
「それだけ書くのですか」
「長く書いたら、また何か言われるぞ」
行嗣はまつの文を見た。
京まで届く返事を、もう少し考えてから書きたかった。
だが、隣ではしづが待っている。
「しづ殿。姉への返事は、二人で書きませんか」
しづが目を丸くした。
それから、うれしそうにうなずいた。
「はい。私も、お話ししたいことがあります」
*
帰り支度を始めるころ、行嗣の籠には、ちよが持たせた物が入っていた。
今度は、何が入っているか一つずつ確かめた。
あやが横から見ている。
「家に着いてから、しづ姉に聞かなくて済むね」
「お前は、いつまでそれを言う」
「次に忘れるまで」
しづが笑った。
行嗣も、とうとう笑った。
門へ向かう途中、ちよが尋ねた。
「鎌倉殿は、お元気そうだった?」
「はい。皆の話を、お笑いになって聞いてくださいました」
「そう」
ちよは、少しだけ足を緩めた。
「お父上のことも、覚えていらしたのね」
「五人の話を、よくしていたとおっしゃっていました」
ちよの目が細くなった。
「家では、仕事の話をしていたのにね」
行嗣は父を思い出した。
帰ってきてからも、誰かの訴えや、なかなか片づかない仕事の話をしていた父。
御所では、逆に家族の話をしていたらしい。
「忙しい方だったのに」
行嗣が言うと、ちよはうなずいた。
「話すことも、たくさんあったのでしょう」
門のところで、家人がちよに声をかけた。
明日、義時から使いが来るという。
「おじさんご本人は?」
あやが尋ねた。
「そこまでは、伺っておりません」
「じゃあ、使いの人に聞いて。ご本人も来るなら、飯が要るから」
宗直が振り返った。
「あや。お前も北条家の者になったのだから、少しは言葉を選べ」
「北条家でも、おじさんはおじさんでしょう」
宗直は返事に困った。
時景が、あやの隣で静かに言った。
「義時様がお越しになるなら、私からも確かめておきましょう」
「小太郎様も、そう思うでしょう?」
「お食事の用意は、あった方がよいね」
あやは満足そうにうなずいた。
ちよは家人に向き直った。
「いらっしゃるなら、そうして差し上げましょう」
行嗣の隣で、しづが肩を揺らした。
その笑い声を聞きながら、行嗣は籠を持ち直した。
明日は、まつへの返事を書く。
まず、しづの書きたいことを聞こう。
二人で門を出ると、しづが行嗣の手元を見た。
「今日は、籠も忘れませんでしたね」
「そこまで忘れません」
「書付は?」
行嗣は立ち止まった。
家へ帰る前に置いた。
今度は、ちゃんと覚えていた。
しづは、返事を待たずに笑った。
「大丈夫です。私も見ておりましたから」
行嗣も笑って、妻の隣を歩き出した。
道の途中で、しづが足を止めた。
「三郎様、少しだけ、あちらを」
「どちらを」
「空です」
見上げると、冬の空に、薄い月が出ていた。
「今日は、まだ何も言っていただいておりません」
「何を」
「今日のよかったことです」
行嗣は、少し困った。
将軍の前に座り、母の家で籠を受け取り、まつの文を読んだ。一日の出来事は順に並んだが、どれが「よかったこと」なのか、すぐには選べなかった。
「……順に挙げれば、きりがない」
「では、一つだけ」
「一つ」
「はい。私が先に言います」
しづは、白い息を吐いて言った。
「三郎様が、籠を忘れなかったことです」
「それは、先ほども言われた」
「ええ。何度でも嬉しいので」
行嗣は、思わず笑った。
それから、少し間を置いて言った。
「……しづが、私の隣で笑っていたこと」
しづは、足を止めた。
「それは、今日のよかったことですか」
「そうだ」
「もう一度、おっしゃってください」
「言わない」
「では、記録しておいてください」
「記録は、私が書くものだ」
「ええ。ですから、書き落としは許しません」
しづは、すました顔で歩き出した。
その耳が、わずかに赤い。
行嗣は、少し遅れてついていった。
家へ着くと、しづは籠の中の物を、一つずつ取り出した。
行嗣は、その隣へ座った。
「まつ姉上への文には、何を書きたい?」
「私が、ですか」
「二人で出すのだから」
しづは、畳みかけた布を膝へ置いた。
「では、あやから伺った、お姉様のお話を」
「どの話だ」
「先に、お教えした方がよろしいですか」
行嗣は、少し考えた。
「……しづの文なのだから、好きに書けばよい」
しづが笑った。
「でも、文にする前に、あなたにも聞いていただきたいです」
行嗣は筆を取ろうとして、やめた。妻が布を片づけ終えるのを待つ。
「今でよいか」
「はい」
しづは、行嗣のすぐ隣へ座り直した。
話しているうちに、二人とも、まつへ書くには長すぎると気づいた。それでも、途中でやめようとはしなかった。
登場人物紹介
源実朝
鎌倉幕府の第三代将軍。源頼朝と北条政子の子。和歌に親しんだ人物としても知られ、建保六年(1218年)に右大臣に任じられた。本作では直成が教えた相手の一人であり、その息子・行嗣とも政務を通じて関わっている。
二階堂行嗣/三郎
直成とちよの三男。大江広元のもとで文書や訴訟の記録を扱う。仕事には几帳面だが、妻への気持ちを言葉にするのは少し苦手。
しづ
行嗣の妻。夫の真面目さをよく理解し、優しく、ときには少しからかいながら支えている。
二階堂宗直/太郎
直成の長男。二階堂家の当主。人の面倒をよく見るが、仕事を引き受けすぎることがある。妻はふみ。
二階堂光成/次郎
直成の次男。田畑や水路など、現場での仕事を得意とする。妻はおりん。
二階堂まつ(にかいどう・まつ)
直成とちよの長女。京の藤原季成に嫁ぎ、千寿丸とあさを育てている。離れて暮らす家族とも手紙を交わしている。
北条時景/小太郎
北条一門につながる家の若者。建保六年(1218年)にあやと婚姻した。商人や荷の取引に通じ、政治的な交渉にも優れる。本作独自の架空の人物。
あや
直成とちよの末娘。北条時景の妻。婚姻後も品物や船、商人への好奇心は変わらず、夫とともに二階堂家へ顔を出している。




