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二階堂一族、鎌倉時代を賑やかに生きる。――亡き父親は転移者!  作者: これってなんだろう
第六部 ちよは、直成をあらためて知る 建久六年〜建久十年(1195~1199年)
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幕間32 ちよは、あやの泣き声で直成の笑顔を見る

建久十年(1199年)、鎌倉。


頼朝が亡くなってから、鎌倉では新しい政治が始まっていた。


頼朝の跡を継いだのは、嫡男の頼家である。


若い鎌倉殿のもとで、御家人たちは以前と同じように仕事を続けようとしていた。


けれど、以前と同じようには進まないことも増えていた。


ちよには、政治の細かなことまでは分からない。


ただ、夫の直成さんが持ち帰る文書が増えたことは分かった。


そして、北条義時が二階堂家を訪ねてくる回数も増えていた。


* * *


「直成殿はおられるか」


その日も、義時がやってきた。


ちよが出迎えると、義時はいつものように頭を下げた。


「おりますが、今日は早く帰るようにと、広元様から言われております」


「それは知っておる」


「ご存じでしたか」


「広元殿から、私にも言われた」


ちよは、少し驚いた。


「では、今日はお仕事のお話では?」


義時は、少し考えた。


「……仕事の話だ」


奥から直成さんが顔を出した。


「義時殿」


「おお、直成殿」


「広元殿から、今日は家にいろと言われませんでしたか」


「言われた」


「では、なぜこちらへ」


義時は、当然のように答えた。


「ここも、おぬしの家だろう」


直成さんは、しばらく義時を見た。


「……そういう意味ではないと思います」


ちよは、笑いをこらえながら二人を見ていた。


義時は、すでに座る場所を決めている。


どうやら、すぐに帰るつもりはないらしい。


「お茶をお持ちしますね」


ちよが言うと、義時はほっとした顔をした。


「かたじけない」


直成さんは、ちよを見た。


「ちよ。義時殿には、あまり長居をしないように……」


「分かっておる」


義時が答えた。


「少し話したら帰る」


ちよは、その言葉を聞きながら思った。


義時がそう言って、少しで帰ったことは、あまりなかった。


* * *


「頼家様は、決して何も考えておられぬわけではない」


義時が言った。


直成さんはうなずいた。


「ええ。それは分かっています」


「むしろ、ご自分で決めようとなさる」


「それも、鎌倉殿としては大切なことでしょう」


義時は、湯飲みを置いた。


「だが、決めれば皆が従うと思われては困る」


直成さんは黙った。


ちよは、少し離れたところで、小さな衣を畳んでいた。


まつが直した、三郎のお下がりである。


「頼朝様は、よく御家人たちの話を聞いておられました」


直成さんが言った。


「そうだ」


「それでも、最後にはご自分で決められた」


義時はうなずいた。


「だから、皆が従ったのだろうな」


直成さんは、少し考えた。


「従わなければならない理由が、皆にあったのだと思います」


「理由か」


「御家人たちは、自分たちの土地や家を守りたい。そのために、頼朝様を支えたのです」


義時は、直成さんを見た。


「頼家様にも、それを分かっていただかねばならぬ」


「ええ」


直成さんは、静かに答えた。


「鎌倉殿のお立場は、頼朝様が一人でおつくりになったものではありませんから」


義時は、しばらく黙っていた。


「……そうだな」


ちよは、二人の声を聞いていた。


頼朝が亡くなったあと、直成さんは何度も同じことを考えているようだった。


鎌倉を残す。


頼朝が築いたものを守る。


けれど、それは、ただ頼朝の子が跡を継げば済むことではないらしい。


* * *


「それにしても」


義時が、ふと庭へ目を向けた。


「直成殿の家は、相変わらず賑やかだな」


庭では、次郎が三郎に何かを教えていた。


太郎は、その二人を見守っている。


まつは、ちよのそばで布を畳んでいた。


「もうすぐ、一人増えますから」


直成さんが言った。


義時は、ちよの腹を見た。


「そうであった」


「忘れておられたのですか」


「忘れてはおらぬ」


義時は、少し慌てた。


「ただ、鎌倉のことで頭がいっぱいでな」


直成さんは笑った。


「僕も同じです」


ちよは、夫の顔を見た。


最近の直成さんは、笑うことが増えていた。


それでも、頼朝の話になると、ふと寂しそうな顔をする。


今も、そうだった。


義時も、それに気づいたらしかった。


「直成殿」


「はい」


「頼朝様なら、何とおっしゃるだろうな」


直成さんは、少し考えた。


「……まず、妻のそばにいろと叱られるでしょう」


義時は、目を丸くした。


それから、大きく笑った。


「違いない!」


ちよも、つられて笑った。


頼朝が健在だったころ、直成さんが家族のことで仕事を抜けると、あの人はよく笑って送り出してくれた。


三郎が生まれたときも、そうだった。


ちよは、そのことを思い出した。


夫も、同じことを思い出しているのだろう。


笑ったあと、少しだけ目を伏せた。


* * *


義時が帰るころには、日が傾いていた。


「では、そろそろ失礼する」


義時が立ち上がると、直成さんも立った。


「今日は、ずいぶん長い『少し』でしたね」


「大事な話であったからな」


「明日は、広元殿のところで続きをしましょう」


「分かっておる」


義時は、ちよに頭を下げた。


「ちよ殿。何かあれば、すぐ知らせてくだされ」


「ありがとうございます」


「直成殿が仕事に夢中になっていたら、私が連れ戻そう」


直成さんが顔を上げた。


「義時殿も、仕事に夢中になるでしょう」


「私は、よいのだ」


「なぜですか」


「おぬしは、もうすぐ五人の父になる」


義時は、少し得意そうに言った。


「それくらい、家にいろ」


直成さんは、返事に困った顔をした。


ちよは笑った。


「義時殿。では、夫をよろしくお願いいたします」


「承知した」


義時は満足そうにうなずいた。


その背を見送りながら、ちよは思った。


義時は、以前より厳しい顔をすることが増えた。


けれど、二階堂家では、こうして笑う。


夫もまた、義時が来ると、少しだけ仕事の重荷を下ろせるようだった。


* * *


その夜、ちよは、なかなか寝つけなかった。


腹が重く、寝返りを打つのも一苦労だった。


直成さんは、すぐに気づいた。


「ちよさん。大丈夫?」


「ええ。ただ、少し苦しくて」


夫は、布団を直した。


「水を持ってこようか」


「まだ、大丈夫です」


直成さんは、ちよのそばへ座った。


「何かあったら、すぐに言ってね」


「はい」


ちよは、夫の顔を見た。


頼朝が亡くなってから、直成さんは何かにつけて心配するようになった。


以前から優しい人ではあった。


けれど、最近は少し違う。


何かを失うことを、前より怖がっているように見えた。


「直成さん」


「何だい、ちよさん」


「今日、義時殿とお話しになっていたことですが」


夫は、ちよを見た。


「頼家様のこと?」


「ええ」


ちよは、少し考えた。


「頼朝様が残された鎌倉は、そんなに危ういものなのですか」


直成さんは、すぐには答えなかった。


「……うん」


夫は、静かに言った。


「頼朝様がいらっしゃったから、まとまっていたところが大きいんだ」


ちよはうなずいた。


「御家人たちは、皆、それぞれの土地と家を持っている。考えも違う」


「ええ」


「その人たちが、鎌倉殿を支えることで、自分たちの暮らしを守れると思っていた」


直成さんは、少し息を吐いた。


「その約束を、これからも守れるかどうかなんだ」


ちよは、夫の顔を見た。


「義時殿も、同じことを考えていらっしゃるのですね」


「うん」


直成さんは、少し笑った。


「義時殿とは、意見が違うこともあるけれどね」


「それでも、よくいらっしゃいます」


「そうだね」


夫は、庭の方を見た。


「頼朝様が残されたものを、なくしたくないんだと思う」


ちよは、夫の手を取った。


「直成さんも、ですね」


「うん」


夫は、ちよの手を握り返した。


「僕も、なくしたくない」


* * *


それから、しばらくして。


夜明け前、ちよは腹の痛みで目を覚ました。


最初は、いつもの張りかと思った。


けれど、しばらくすると、また痛みが来た。


ちよは、ゆっくり息を吐いた。


隣で眠っていた直成さんが、目を覚ました。


「ちよさん?」


「……そろそろかもしれません」


夫は、すぐに起き上がった。


「産婆を呼んでくる」


「直成さん」


「うん?」


「落ち着いてください」


夫は、戸口で止まった。


ちよは、痛みの合間に笑った。


「まだ、走らなくても大丈夫です」


直成さんは、少し困った顔をした。


「……そうだったね」


それでも、すぐに家人を呼んだ。


家の中が、静かに動き始めた。


* * *


朝になるころには、子どもたちも起きてきた。


太郎が、真っ先にちよの部屋の前へ来た。


「母上は?」


直成さんが答えた。


「産婆がついてくださっている。大丈夫だよ」


次郎もやってきた。


「もう生まれるの?」


「まだ分からない」


まつは、小さな衣を抱えていた。


「これ、持ってきました」


直成さんは、娘の手元を見た。


「ありがとう」


まつは、少し緊張した顔をしていた。


「父上。私、何かできますか」


「そうだね」


直成さんは、少し考えた。


「三郎を見ていてくれる?」


まつは、すぐにうなずいた。


「はい」


三郎は、太郎の後ろから顔を出した。


「まだ?」


「まだだよ」


次郎が答えた。


三郎は、少し不満そうだった。


「おそい」


太郎が、弟の肩へ手を置いた。


「赤子にも、支度があるんだ」


「したく?」


「そうだ」


次郎が、横から言った。


「衣は、まつが用意したけどね」


三郎は、まつの抱えた衣を見た。


それから、直成さんを見た。


「父上は?」


直成さんは、少し驚いた。


「僕?」


三郎はうなずいた。


「父上、なにした?」


直成さんは、しばらく黙った。


太郎と次郎が、父の顔を見た。


まつも、見た。


「……布を運んだよ」


次郎が、すぐに笑った。


「たくさん!」


まつも笑った。


「半分、戻されたけど」


直成さんは、困ったように笑った。


三郎は、よく分からないままうなずいた。


「父上、ぬの」


ちよは、部屋の中でその声を聞いていた。


痛みの合間に、少し笑った。


* * *


昼近くになって、痛みが強くなった。


ちよは、産婆の声に合わせて息を整えた。


四度経験していても、慣れるものではない。


怖かった。


痛みが来るたびに、無事に生まれてくれるだろうかと考えた。


夫は、戸の向こうにいる。


子どもたちも待っている。


ちよは、布を握りしめた。


「大丈夫ですよ」


産婆が言った。


「もう少しです」


ちよは、うなずいた。


次の痛みが来た。


息を吐き、体に力を込める。


何度か繰り返したあと、ふいに、体が軽くなった。


そして。


小さな声が聞こえた。


最初は、か細かった。


けれど、すぐに大きくなった。


赤子の泣き声だった。


ちよは、目を閉じた。


涙が出た。


「……生まれましたよ」


産婆が言った。


「女の子です」


ちよは、ゆっくり目を開けた。


小さな体が、布に包まれていた。


顔を赤くして、精いっぱい泣いている。


ちよは、その子を見た。


「……よかった」


声が震えた。


「無事に、生まれてくれて」


* * *


戸の向こうで、足音がした。


「ちよ!」


直成さんの声だった。


産婆が、笑いながら答えた。


「もう少しお待ちください。母子ともに無事です」


その言葉を聞いたあと、外が急に静かになった。


ちよは、少し不思議に思った。


いつもなら、夫は何か言うはずだった。


けれど、何も聞こえない。


やがて、戸の向こうから、小さな声がした。


「……よかった」


それだけだった。


ちよは、赤子を抱きながら目を閉じた。


夫も、きっと泣いているのだろう。


* * *


しばらくして、直成さんが部屋へ入ってきた。


夫は、ちよの顔を見た。


それから、腕の中の赤子を見た。


「ちよ」


「はい」


「ありがとう」


直成さんは、そう言って頭を下げた。


ちよは、少し笑った。


「あなた。こちらへ」


夫は、そっと近づいた。


赤子は、まだ小さな声で泣いていた。


直成さんは、その顔を見つめた。


「……小さいね」


「ええ」


「こんなに小さかったかな」


「三郎のときも、同じことをおっしゃいました」


直成さんは、少し笑った。


「そうだったね」


ちよは、夫の腕へ赤子を渡した。


直成さんは、慎重に抱き上げた。


五人目の子である。


それでも、初めての子を抱くような顔をしていた。


赤子は、夫の腕の中で泣き続けている。


直成さんは、少し困った顔をした。


「どうしたらいいのかな」


ちよは笑った。


「まずは、抱いていてください」


「うん」


夫は、赤子を見た。


小さな手が、布の間から出ていた。


直成さんは、その指へ自分の指を近づけた。


赤子が、ぎゅっと握った。


夫の顔が、変わった。


驚いたように目を見開き、それから、ゆっくり笑った。


ちよは、その顔を見ていた。


頼朝が亡くなってから、夫は何度も笑った。


子どもたちの前でも、義時と話しているときも。


けれど、今の笑顔は、少し違った。


何かを思い出して笑ったのではない。


誰かを安心させようとして笑ったのでもない。


目の前の小さな命が、夫を笑わせていた。


* * *


「この子は、どんな子になるのだろうね」


直成さんが言った。


ちよは、夫を見た。


「まだ、分かりませんね」


「うん」


夫は、赤子の顔を見つめた。


「何が好きになるのかな」


「三郎のように、走り回るかもしれません」


「それは、大変だ」


「まつのように、しっかりした子かもしれません」


「それなら、助かるね」


二人で笑った。


直成さんは、少し黙った。


それから、静かに言った。


「……分からないんだね」


ちよは、夫の顔を見た。


その言葉の意味が、分かった。


未来から来た夫は、かつて、これから起こる出来事を知っていると思っていた。


けれど、頼朝の死を変えることはできなかった。


そして今、腕の中にいる娘が、どんな人生を歩むのかも知らない。


ちよは、夫の手へそっと触れた。


「ええ」


夫は、こちらを見た。


「でも、一緒に見ていけます」


直成さんは、しばらくちよを見ていた。


それから、うなずいた。


「……そうだね」


赤子が、また泣いた。


直成さんは、慌てて抱き直した。


「ごめん、ごめん」


ちよは笑った。


「あなた。謝らなくても大丈夫ですよ」


「でも、泣いているから」


「赤子は、泣くものです」


「そうだったね」


五人目になっても、夫は変わらない。


ちよは、そんな夫が好きだった。


* * *


子どもたちが部屋へ入ってきたのは、それから少しあとだった。


太郎が先頭だった。


次郎が続き、まつが小さな衣を抱えている。


三郎は、その後ろから顔を出した。


「母上!」


「はい」


ちよが答えると、三郎はほっとした顔をした。


太郎が、直成さんの腕を見た。


「父上。妹ですか」


「うん」


直成さんは、赤子を少し見せた。


「皆の妹だよ」


次郎が、顔を近づけた。


「小さいな」


まつも、そっとのぞいた。


「本当に、この衣が着られそう」


三郎は、しばらく赤子を見ていた。


それから、直成さんへ尋ねた。


「三郎の?」


直成さんは、少し考えた。


「三郎の妹だよ」


三郎は、目を丸くした。


「いもうと?」


「そう」


三郎は、赤子を見た。


それから、太郎を見た。


次郎を見た。


まつを見た。


最後に、もう一度赤子を見た。


「三郎、兄上?」


直成さんは、うなずいた。


「そうだよ」


三郎は、しばらく黙っていた。


それから、胸を張った。


「兄上!」


次郎が笑った。


「そうだな」


まつも笑った。


「では、優しくしてあげてね」


三郎は、真剣な顔でうなずいた。


そして、赤子へ顔を近づけた。


「兄上だぞ」


赤子が、突然、大きな声で泣いた。


三郎は飛び上がった。


「ないた!」


太郎が笑った。


「挨拶してくれたんだろう」


次郎も笑った。


「三郎の声に驚いたんじゃないか」


三郎は、少し不満そうだった。


「三郎、こわくない」


直成さんが、赤子を抱いたまま笑った。


「うん。三郎は怖くないよ」


ちよは、その光景を見ていた。


五人の子どもたち。


夫の腕の中の、小さな娘。


笑っている兄たちと、姉。


頼朝が亡くなってから、夫がこれほど長く笑っているのを見たのは、久しぶりだった。


* * *


夕方、広元から使いが来た。


母子ともに無事と聞いて、安心したという。


しばらくは家にいてよい、とも伝えられた。


直成さんは、使いに何度も礼を言った。


そのあと、義時からも使いが来た。


祝いの言葉とともに、短い伝言があった。


『明日も仕事のことは考えず、家にいろ』


直成さんは、文を見て少し笑った。


「義時殿まで」


ちよが尋ねた。


「何と書いてありましたか」


直成さんは、文を見せた。


ちよも笑った。


「では、明日は家にいてくださいね」


「うん」


直成さんは、少し考えた。


「でも、義時殿は仕事をしているんだろうな」


「そうでしょうね」


「広元殿も」


「ええ」


直成さんは、少し困った顔をした。


ちよは、その顔を見て言った。


「直成さん」


「何だい、ちよさん」


「お二人は、直成さんが安心して家にいられるように、お仕事をしてくださっているのでしょう」


夫は、少し黙った。


それから、ゆっくりうなずいた。


「……そうだね」


ちよは、夫の手を握った。


「明日は、皆でこの子を見ていてください」


直成さんは、赤子を見た。


「うん」


そして、静かに笑った。


* * *


夜になった。


子どもたちは、ようやく眠った。


三郎は、寝る前に何度も妹を見に来た。


まつは、小さな衣を畳み直していた。


次郎は、明日も妹を見られるかと尋ねた。


太郎は、弟たちが騒がないようにすると約束した。


ちよは、夫と二人で赤子を見ていた。


小さな寝息が聞こえる。


直成さんは、その顔をじっと見つめていた。


「名前を、考えないとね」


夫が言った。


ちよはうなずいた。


「ええ」


「ちよさんは、何か考えている?」


ちよは、少し笑った。


「一つ、あります」


「聞いてもいい?」


「……あや、というのはどうでしょう」


直成さんは、赤子を見た。


「あや」


小さく繰り返した。


「うん。いい名前だね」


ちよは、夫の顔を見た。


「本当に?」


「うん」


直成さんは、赤子の手へ指を近づけた。


小さな指が、また夫の指を握った。


「あや」


夫は、もう一度呼んだ。


「よろしくね」


ちよは、その声を聞いていた。


夫は、これから先のことを知らない。


自分も知らない。


あやがどんな子に育つのか。


何を好きになり、誰と出会い、どんな人生を歩むのか。


何一つ、分からない。


けれど、今、夫は笑っていた。


頼朝を失い、未来が分からなくなったと泣いた夫が。


生まれたばかりの娘の手を握り、明日を楽しみにしている。


ちよは、そっと夫の肩へ寄り添った。


「直成さん」


「何だい、ちよさん」


「この子が大きくなるのを、一緒に見ていきましょうね」


直成さんは、ちよを見た。


それから、ゆっくりうなずいた。


「うん」


あやが、小さく声を上げた。


直成さんは、すぐに顔を向けた。


「起きたかな」


ちよは笑った。


「もう少し、眠っていてくれるとよいのですけれど」


「そうだね」


夫も笑った。


部屋の外では、夜の風が木々を揺らしていた。


鎌倉の先がどうなるのか、二人には分からない。


けれど、今夜、二階堂家には新しい命が一つ増えた。


そして、その小さな泣き声を聞くたびに、直成さんは笑った。


ちよは、その笑顔を、いつまでも覚えていたいと思った。

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